2009年11月10日 (火)

『未来のための江戸学』 田中優子著

『未来のための江戸学』(田中優子、小学館101新書)を読了。
そもそものきっかけは、産経新聞のコラムの中で田中氏自身が紹介していた
ことだった。田中優子氏についてはよく知らないが、以前NHKでやっていた
「江戸の色恋ものがたり」というのが面白くて、氏の他の著作を探したことがあったので、
ちょうどよい機会だと思って氏の著書を読むことにした。

氏の考えには、うなずけるとこともあれば、そうではないところもある。

私は筆者の意見にはおおむね賛成である。
江戸時代を循環の時代として肯定的にとらえているところは
大いにうなずける。また、明治維新についても、「暗黒から夜明けへ」という
ものではなくて、外圧によるやむにやまれぬものであり、それ以降の近代化によって
江戸時代の価値観が失われたことの損失は大きいという意見にも賛同できる。

ものが豊かなことだけが幸福なことではない、という意見や、
住宅の西欧風化によって、日本人の人間関係がいびつになったというのもうなずける。

しかしながら、江戸時代の平和は、筆者が冒頭で掲げているさまざまな矛盾と
1セットであり、江戸時代の「いいとこどり」だけをすることは不可能なのではないだろうか。

平和な世が260年も続いたということは、強固な身分制度や徳川による強力な統治なくしては
ありえなかっただろうし、見せしめのための残忍な刑罰なくしても治安を維持することは
不可能だったろう。

筆者は死刑制度に反対だし、核による抑止にも反対、憲法9条を守る立場だが、
これは大いなる矛盾というか、ああ、やっぱりお花畑だなあ、と思わざるをえない。

筆者はアメリカによる覇権主義には言及しているが、日本のすぐ隣にいる
中国による人道問題や軍事大国化には知らぬ存ぜぬを決め込むのだろうか。
だとしたらよっぽどおめでたい。

筆者が言うように、これからの日本が拡大主義をやめて循環型の社会をめざすなら、
少なくとも核武装ぐらいはして、他国の干渉から身を守るぐらいのことはしなければ
不可能だろう。

それぐらいのことが、黒船の砲艦外交で脅された江戸を研究する筆者にはわからないのだろうか。

筆者が言うように、未来のために本当に江戸時代的な循環社会を目指すなら、
もっとリアルにものごとを考える必要があるだろう。

一例をあげれば、排泄物の再利用にしても、さまざまな薬品を摂取している
現代人の排泄物をそのまま肥料として再利用することは不可能であろう。
そのくらいのことは素人にもわかる。

江戸時代はよかったよ、というぐらいなら、素人にもできる。
本当に「未来のための」と銘打つのならば、もっとリアルな分析・提言をしてほしいものだ。

でなければ、小谷野敦氏に「お江戸左翼」と呼ばれても仕方ないだろう。

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2009年10月21日 (水)

音楽と神

最近思うことだが、音楽と神とはとてもよく似ている。
どちらも、形がない。
しかし、ある形をとってこの世に顕現する。
神が、人間にとってさまざまな相貌を伴って顕現するのと同様、
音楽もまた、さまざまな形(ジャンル)として顕れる。
しかし、どんな相貌を伴おうとも、それは神の一部である。

神を表現するにはある形式が伴う。
それが、宗教におけるさまざまな儀式になるのだろう。
カトリックの儀式、プロテスタントのそれ、また、民間信仰のそれ。
音楽においても同様で、それはクラシックであったり、ジャズであったり、
現代音楽であったり、さまざまな表現様式となる。

けれども、「形式」にとらわれることは、かえって本質を見誤ることにも
なりかねない。

人によっては、「神」を笠に着て他人を抑圧したり、脅したりもする。
それは、神の本質とは何の関係もない。
しかし、そういう悪人に対しても、神は愛を注いでいるに違いない。

ミュージシャンにもたまにそういう人がいる。
「そういう気持ちで音楽やらんといてや」みたいなことを言ったり。
しかし、音楽がすべての人を愛している限り、
ただの人間が他人に対してそういうことを言う権利は何もない。

宗教の人が信仰歴の長さを誇ったりするのと、ミュージシャンがキャリアの長さを誇ったり
するのとはよく似ているが、そういう自慢はおそらく神や音楽から見れば何の意味もない。

そのときどれだけ神や音楽を愛しているか、それしか神や音楽にとっては
関係ないのだと思う。キャリアの若い人が、純粋に音楽を楽しんでいるほうが、
音楽に対する態度としては「正しい」のではないだろうか。

宗教団体はお金が絡む。
いつの間にか、神を感じることよりも、お金の方が中心になってしまっていたりする。
これは本末転倒である。
ミュージシャンの中にも、先日逮捕された詐欺師のKのように、音楽よりも
お金が中心になってしまった人もいる。

だがわれわれ(アマチュアは特に、またたとえプロであっても)は、
音楽に敬意を表し、音楽を愛するという原点を忘れるべきではないだろう。

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2009年10月 9日 (金)

中川昭一氏の急逝を悼む

中川昭一氏が亡くなった。
テレビの速報を見たとき、信じられない気持ちだった。
嘘だろ、嘘か何かの間違いであって欲しいと願った。
しかし、その願いも叶わぬまま、時間が経過し、通夜と葬儀が執り行われた。

氏が亡くなったということはようやく事実として認識できるようにはなったが、
氏を喪ってしまった喪失感と哀しみは、いまだに癒えることはない。

日本はほんとうに大きな人物をなくしてしまったのだ、そして残されたのは
おふざけや私利私欲で政治をやっているとしか思えない人々――。

残念だが、この世がますます濁世の様相を色濃くして行くにつれ、
ほんとうに心の清らかな人はあちら側に召されてゆくのだなあ、と。

私は直接には氏のことを知らない。
ただ、氏の言動を通じてしか、氏の人となりを知ることはなかったが、
氏の人柄というものは自然とにじみ出ていた。
あの会見の後、氏のことを馬鹿にしたり茶化したりするようなテレビ芸者たちが
いたが、まさに「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」。
下衆な者どもには、高貴な人の志というものは知るべくもないのだろう。
私はテレビの政治バラエティを見るのがつくづくいやになった。

だが、氏の人柄が高潔であったことは、通夜に3000人、葬儀に4500人もの
人々が集まったことでも容易に知られることである。

もう一つ思ったのは、人というのはいとも簡単にそして急にいなくなってしまう
ものなのだ、と。そこにいて当たり前だと今まで思っていた人が、今はもう
いない。あるのはその亡骸だけだという喪失感――。

だから、「一期一会」と人は言うのだ。

その人が、今ここにいることの、文字通りの有り難さをかみしめなければ――。

あまりにも大きな人物を喪ってしまったことに、
心からお悔やみを申し上げ、哀悼の意を表するものである。

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2009年9月24日 (木)

インターネットにおける「議論」の不可能性

私も、「言いたいこと」は多い方である。
で、議論系のサイトを割とよく見る。(いや、よく見ていたと言った方がよいかもしれない。)
例えば、産経の「イザ!」とか「たかじんのそこまで言って委員会大会議室」とか、
読売の「発言小町」とか。

しかし、「議論」が「議論」として成熟し、実りあるものになっている例を見ない。
たいていは自分と異なる意見の人に対する揚げ足とりから誹謗中傷、攻撃、
に終わっている。

そりゃそうだ、そういう人は最初っから相手の考えを聞く気持ちなどないのだから。
しかも、顔が見えない、文字だけという形式がさらに暴力性に拍車をかけている。

結論すると、インターネットでの議論は不可能なのだ。

私もかつてはこのブログでいろいろなコミュニケーションをしたことがあるが、
最近はコメントを受け付けていない。人の意見を聞こうとせず、自分の主張を
押しつける人にいちいちからむコメンターに付き合うのがめんどくさいからだ。

インターネットが普及し、ほぼ誰でもブログを書いたり見たりできるようになったが、
ユーザーの階層もそれだけ下に広がっているということだろう。

誤字脱字はご愛嬌としても、現実と同じように「やかって」こられるのはたまらない。

コメント欄を設けなくても、読む人は読むだろうし、コミュニケーションが必要ならば
リアル世界ですればいいことだ。

議論系サイトの「荒れっぷり」を見ていて、つくづくそう思う。

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2009年9月15日 (火)

MT車礼讃

はっきり言おう。
MT車でなければ車ではない、と。
だいたい、AT限定なんて、あれは免許じゃない。
自動車教習で一番最初にぶつかる壁が、半クラッチなのだ。
半クラッチがうまくできるかできないかで、車を運転するセンスがあるかないかがわかる。
半クラッチで泣く。半クラッチがうまくできなくて、何度もエンストする。
それでも車を運転したい人がそれを乗り越えて、うまくなっていくのだ。
いわば、半クラッチは自動車運転の通過儀礼といってもよい。
全てにおいて通過儀礼をなくしてしまった現代日本社会は、
車の運転についても通過儀礼をなくしてしまった。

かく言う私も実はCVT車を運転している。
本当はMT車がほしかったが、MT車が設定されてなかったのだ!
何ということ!
昔は、MT車はAT車より10万円ほど安くて、お財布にも優しかったのに。
MT車はもはや絶滅危惧種となってしまったのか!

慣れてしまえばMT車の運転のし心地、車との一体感は、何物にも代え難い。
車を操る楽しみとは、MT車を操る楽しみと同義なのだ。

しかも、MT車は燃費もよい。
アクセルとブレーキの踏み間違いで急発進したとかいうこともありえないので、
安全性も高い。

自動車メーカーは運転の下手な人に媚びるのをやめて、MT設定車を増やしてほしい。

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2009年8月31日 (月)

さて、ほんとうに「生活が第一」なのか

日本の有権者は、「生活が第一」という標語にまんまと乗せられて、
民主党政権の誕生を許してしまったようだ。
しかし、本当に「生活が第一」なのだろうか?

別にこれは、民主党の政策が実質的には増税政策であることや、
最低時給保証でコスト増を嫌う企業が日本から逃げ出し、
失業者がますます増大することなどを言っているわけではない。

私はもっと精神的、形而上的なレベルで問いを発しているのだ。

「生活が第一」。
これと対極にある言葉が、
「武士は食わねど高楊枝」や
「人はパンのみにて生くるにあらず」
なのである。

つまり、人間として大事なことは、生活以上に、精神的なものにある、
ということなのである。

「生活が第一」に騙された国民が多かったというのは、
それだけ価値観の中心が精神よりも物質に移ったということの表れなのであろう。

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2009衆院選狂想曲「すべては他人のせい」

終わりましたな、選挙。
まあ、こうなることはだいたい予想できていましたが。
それにしても、前回の郵政選挙以来、日本人がマスゴミに踊らされて
まったく賢くなっていないということには、軽い絶望感を覚えるのである。


多くの人が言う。
「自民が悪い。政権交代を!」と。
では、4年前のあの選挙であなたはいったい誰に、どこに投票したのか?
文句の一つも言う資格があるのは、小泉郵政選挙に反対票を投じた者だけだ。(´,_ゝ`)プッ
前回小泉支持で、今回民主支持、これが最悪の投票パターンだが、
結果を見る限り、そういう投票行動をとった者が多かったのだろう。


小泉構造改革で地方が疲弊し、貧富の格差が広がった。
これは事実である。
しかし、多くの人が小泉を支持したではないか。
地方が疲弊し、貧富の格差が広がったのは、他ならぬ、
小泉を支持した有権者自身の投票行動の結果ではないか。


けして自民党が悪かったのではない。
小泉の私党と化していた4年前の自民党に投じた有権者が悪いのである。


私は何を言っているか。
ようするに、民主主義における選挙とは、有権者のオツムの程度がそのまま
結果に反映
するシステムなのである。だから、「政治が悪い」のではない。
そういう政治を選んだ有権者が悪いにきまってるのである。


昨今の我が日本国の世論状況を見ると、まったく情けなくて、
すべてを政治のせい、人のせいにしている。
自分で責任をとろうとする心構えが全くない。
人のせいにするのが一番楽なのだ。批判していれば済むのだから。
それが、民主党への投票行動となって現れた。


だが、(池田晶子風に言えば)全てを人のせいにし、全てを人任せにし、
政治が何とかしてくれると思っている人は、いったい誰の人生を生きているのか
政治がどう変わろうと、経済がどう悪くなろうと、生きていくのはその人自身なのである。
生きていくというのは自分の責任において以外にありえないのである。


さあ、そういう覚悟さえあれば、たとえ民主党政権になって数々の闇法案が通され、
日本が日本人のものでなくなり、転がり落ちるように日本が没落の一途をたどったとしても、
私は力強く生きてゆけるだろう。
これは大いなるパラドックスである。

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2009年7月22日 (水)

自虐と破壊

今、日本中を一つの妖怪が闊歩している。
自虐という名の妖怪が。

これまで営々と築いてきたものを破壊しろ、の大斉唱である。
たとえば官僚機構しかり、国と自治体の関係しかり。

確かに、改善すべきところはある。
しかし、改善とは破壊のことではない。

いったいどうして、日本人はこんなに破壊が好きになってしまったのだろうか。

一つのたとえを出そう。
自尊感情の薄い人は、容易に自傷行為に及んだり、非行に走ったりするという。
それを国に置き換えてみればよい。
日本は悪だ、日本人は悪いことをした、という、古くはGHQによる、新しくは
シナ、韓国、北朝鮮などによる洗脳が浸透してしまったのだろう。
だから、すべてを破壊せよ、破壊して新しい日本を作れ、となってしまうのだ。

さすれば、まず日本人が自尊感情を取り戻すことが先決である。
このまま行くと、日本は後で取り返しのつかないほど破壊されつくしてしまうだろう。

本当は、一人一人がそのことに気づくべきなのだ。
とりわけ、「日本はとんでもない、くだらない人間が政治をやっているとんでもない国なのだ」と
いうデマを流し続けているメディアの罪は重い。

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2009年6月12日 (金)

安部恭弘 「FUNNY LADY」

未明に目が覚めてラジオのスイッチを入れてみると、
「ラジオ深夜便」でこの曲が流れていた。
聴けたのはアウトロ部分だけだったが、
なぜかとても魅力的な曲に思えた。
ネットで調べてみると、80年代前半の曲らしい。
今聴くと、アレンジなどもとても上質だ。
ジャンクフードのような曲があふれる今日この頃、
こんな曲をもっとたくさん聴き直してみたいと思った。

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2009年1月30日 (金)

親の心

昨夜、妻と一緒に、子どもが生まれたときに録音された産声を聴いた。
小さく高いその声を聴いて、思わず泣いてしまった。

私は立ち会い出産だったが、その時には自分が親になるという実感も湧かず、
驚きやら戸惑いやらで、感動している余裕などなかったのだが、
あれから約半年経った今、感動できる自分になっていた。

立ち会いしたい人、したくない人、男なら両方いると思う。
したくない人に無理に立ち会わせる必要もないと思う。

男親にとっては、その現場にいるか否かよりも、その後いかに子どもとの
絆を深めていけるか、いかに愛情を育んでいけるかの方が大事だと思う。

母親と子どもとの間には、アプリオリに切ることのできない絆が存在する。
しかし、男親にとっては、出産は傍観するほかないのだ。
だからこそ、その後の方が大切なのだとも思う。

私は、半年経った今、子どもに、「生まれてきてくれてありがとう」と、
心から言える。そして、この子の存在に対して、自分が責任をもっていきたい
と思う。それは、この半年で自分の中に親の心が育まれてきたからなのだろう。

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