2019年12月10日 (火)

最近の小田さんの曲

実は”ENCORE!!ENCORE!!”で初めて聴いた曲もある。

『個人主義』『そうかな』の後、小田さんのアルバムを買っていなかったのだが、最近の小田さんの音使いは少し変わってきたなと思った。

『個人主義』や『そうかな』では、フォーキーな感じの曲が散見されたのだが、最近の曲は少し洋楽的になっているなと思った。以前の小田さんなら、こういうコードやこういう音を使わなかったなというような。それが、とても新鮮だった。

小田和正の音楽は進化し続けるのだろうと思った。

| | コメント (0)

”ENCORE!!ENCORE!!”小田和正に見る王者の風格

小田さんの”ENCORE!!ENCORE!!”は、その辺の普通のライブビデオとは違っていた。

どういう表現が適当なのだろうかといろいろ考えたのだが、「王者の風格」という言葉が最もふさわしいのではないかと思った。

けっして楽そうには見えなかった。それでも頑張って声を出している。頑張って走っている。

そこに、半世紀の間この業界でやってきた人の「凄み」を感じた。画面からでさえその「氣」というかオーラというか、そういうものを感じた。

小田さんも決して若くないなと思ったが、そりゃそうだ、72歳だもの。そういう年齢になって、若い時にはなかったような凄みというのか重みというのか、そういうものを増しているなと思った。

こういう言い方は失礼になるのかもしれないが、年老いたライオンは、年老いていてもライオンとしての風格があり、威厳がある。そういうものを感じた。

小田さんはこれまで、出会いがあれば別れが必ずあることを歌ってきた。

そのことの避けがたく重い意味がずっしりと心に迫ってくる、そんなライブビデオだった。

| | コメント (0)

2019年12月 9日 (月)

小田さんと政治

小田さんが賢明だと思うのは、生々しい政治的なマターについて一切口出ししないことだ。

小田さんは全共闘世代だし、かつては朝日新聞やTBSなどのメディアに好んで出ていた。また、「the flag」などの歌詞から、小田さんは左翼的な思想の持ち主ではないかと勝手に解釈する人もいるようだ。

しかし、かつて何のインタビューだったか忘れたが、小田さんが憲法改正に言及したことがあって、インタビュアーに「小田さんは改憲論者ですか?」と突っ込まれていたのを覚えている。だから、小田さんがどういう政治思想の持ち主かは本当のところわからないし、わからない方がいい。

そんなことで小田さんの音楽の価値は変わらないし、何よりも夢を売る商売だからだ。それは小田さんが一番よくわかっていて、いろいろ言いたいことはあるんだろうけど、ぎりぎりのラインで歌詞に入れるとか、そういう節度をわきまえているのだと思う。

小田さんのファンには、それはいろんな人がいて、左の人もいれば右の人もいるだろう。すべての人が小田さんの歌を楽しむことができるというのが一番いいのだと、それは小田さんが一番よくわかっているのだと思う。

生々しい現実的な政治の話をすれば、夢が壊れてしまう。

夢を売るプロフェッショナル中のプロフェッショナルである小田さんがそんな愚かなことをするはずがない。そこがまた、私が小田さんを好きな理由でもある。

そしてこれからも、小田さんは夢を売るプロフェッショナルであってほしいと思う。

| | コメント (0)

ブルーレイ”ENCORE!! ENCORE!!”追記 プロフェッショナルとしての小田さん

前回の記事に追記。

小田和正という人間は、プロ中のプロだと思う。

そのステージは計算され尽くされ、足を運んだ人すべてが、その対価に見合うだけの、いや、それ以上の満足感、を感じるように作り込まれていると思う。

小田さんには子供がいない。『さらば青春の時』でのアリスの矢沢透と、オフコースの鈴木さんとの鼎談を読めばわかるのだが、小田さんは子供を作らない主義の人なのだそうだ。かつて私は、そういうことに対して疑問を感じたこともあったのだけれども、小田さんの「子供」は小田さんの作品すべてなのだし、家庭や子育てで消耗するであろうエネルギーをすべて、仕事(音楽)に傾注している、根っからの仕事人間、プロフェッショナルなんだと思った。そして、その愛情を、ファンすべてに注いでくれているのだ、と、ブルーレイを見ながら思った。それは、良し悪しではなくて、天が、そういう人間として、小田和正をこの世に遣わしたのだと思っている。

| | コメント (0)

小田和正”ENCORE!! ENCORE!!"(ブルーレイ)を観た

小田さんの”ENCORE!! ENCORE!!”というブルーレイを、ようやく観ることができた。

とても良かった。感動した。

小田さんを中心とした会場の一体感、熱気というものが伝わってきて、小田さんの世界にどっぷりと浸ることができた。

皿洗いをしながらの視聴であったにもかかわらず、その世界に浸って、感動して泣いてしまった。

ブルーレイでさえ、こうなのだから実際にコンサート会場にいたら、どれだけ感動したことだろうか。

それは、何物にも代えがたい「心の栄養」になるだろうと思う。

もう最近は小田さんのコンサートチケットは取りづらくなってしまったけれども、まだそれほど争奪戦が過熱していなかった90年代後半~00年代前半にかけて、何度か小田さんのコンサートに行った時のこと、あの時の熱気と感動とを思い出した。

今、チケット不正転売が問題になっているけれども、このツアーでも小田さんのチケットがネットで高額で売られているのを見た。行きたい人が本当に行けるように、取り締まりを強化してほしいものだと思う。

話を本筋に戻す。

それにしても、こういう世界を作り上げることのできる小田和正という人間は、本当にすごいと思う。私には、人々に感動を与えるために、天が、小田和正という人間を、「選んだ」のだと思える。

私が小学生の頃、オフコースと言っても、「オフコースって何?」という感じだった。けれどもそれから数十年、小田和正という人物は、押しも押されもせぬ、大御所と呼ぶにふさわしい人間になった。かつては線の細い声質と思っていたところもあったが、太さ、迫力、安定感が増していった。今もし小田さんの歌のことを悪く言う人がいるとすれば、それは音楽というものを、藝術というものを解さない人だと思う。

それにしても。

このブルーレイを見ながら、小田さんももう若くはないんだということを感じざるを得なかった。ライブ後半になればなるほど、声が出るようになってきていたが、前半はつらそうな感じも少しあったように見えた。表情も、当然だけれども、15年前とは違う。

物事には必ず終わりがあるし、小田さんのことだから、自分の満足できるステージができないと思った時、マイクを置くのだろうとは思うけれども、できるだけその時は来てほしくない。できるだけ長く長く、歌い続けてほしい。

そう思うのだ。

以上とりあえずの走り書きの感想。

| | コメント (0)

2019年12月 7日 (土)

さようならピアノ

今日、ピアノに別れを告げてきた。

買い取りが決まってからは早かった。もう少し遅くなるかと思っていたが、2,3日で取りに来た。

取りに来るのは運送屋だから、現場はドライなものだった。

ふたを外して中を点検し、大きな不具合がないか確認して連絡。

無事、査定通りの満額で買い取ってもらった。

幼稚園の年長ぐらいのときに買ってもらったピアノだからもちろん寂しい思いはある。

けれども、これまでいかに長い間ほったらかしにしていたかと考えると、ピアノには新しい人生を歩んでもらうのが一番いいのだ。

いつ弾かれるかわからないような状態にしておくよりも、ちゃんとメンテナンスしてもらって生まれ変わり、新しいオーナーのもとで、存分にその力を発揮してもらうのが、ピアノにとっても最善なのだ。

| | コメント (0)

2019年12月 5日 (木)

さようならピアノ

ピアノの売却が正式に決まった。

母が他界してから、実家はごみ屋敷になり、負のパワースポットと化していたので、私もあまり寄りつきたくなかった。

空気はよどみ、数分間いるだけでのどがおかしくなるように感じた。

けれども、実家撤去に伴い、父がピアノを捨てると言い出してから、数回、惜しむようにピアノを弾きにいった。

これまでずっと弾きに行かなかったのに、まったく勝手なものだと自分でも思う。

40年以上も経過しているのに、ピッチは殆ど狂っていなくて、ヤマハというメーカーはほんとにすごいなと思った。

およそ藝術というものを理解しない父は、私がピアノを保管してほしいといっても金がかかるだけだといって拒否した。(母なら違っただろうと勝手に思うが、そんなことを言っても仕方ない。)

個人的に誰かに無償で譲ることも考えたが、運搬費やメンテナンス費もかかるだろうと思い、それよりは業者にきちんとメンテナンスして貰って、ほしい人に買って貰う方がいいだろうと考えた。

父は「売っても1万円ぐらいじゃろう」などと言っていたが、意外といい値段がついたのはありがたいことだった。

音楽家にとって楽器は自分の身体の一部である。だから、別れには痛みが伴う。

だから、査定が出てもなかなか具体的な日取りを決められなかった。

でももう大丈夫な気がする。動き出せば、あとはえい、やっと進めるだけだ。

音楽とピアノの好きな人に買ってもらって、たくさんたくさん弾いてもらってほしい。

私はあまりかわいがってあげられなかったので。

| | コメント (0)

2019年11月22日 (金)

コミュニケーション成立のためには

相手が間違っていると思って相手を正そうとした場合、最初から相手を批判する、相手を貶めることを目的としていたのではコミュニケーションが成立するはずもない。そんな姿勢で相手が話を聞くはずもないし、心を開くはずもない。逆に心を閉じて反撥するだけだろう。

もしかして、私の妻に対する接し方はこれまでそうではなかったか? 自問し、反省した。

おかしい、それは間違っている、と思ったとしても、頭ごなしに、高圧的に話をしてはいけない。

相手には相手の立場がある。

だから、今は食い違っているが、同じ方向を見ていれば、より良い方向に歩み寄れるはずだ、と思って話をしなければならない。

相手に寄り添うように。

(今の野党のやっていることを見て、思った。そういう意味では反面教師である彼らに感謝。)

| | コメント (0)

2019年11月18日 (月)

英語教育を考える

大学入試の英語を巡って、結局しばらくは従来通りの読む・聞く能力だけを試す形式が維持されるようだ。

私はこれでいいと思う。

確かに、宮家邦彦さんが書かれているように、日本人は国際社会で情報発信が下手すぎて、それが国益を損なう原因となっているということは認める。

しかし、「しゃべること」に重点を置く英語教育は危ういと思う。

私は旧来の英語教育を受けた世代だが、しゃべることに不自由をさほど感じたことはない。

大学時代アメリカに行って、現地の人から「お前、無口だと思ってたけどそんなに英語しゃべれたのかよ」と言われて、こっちがびっくりした。

しゃべることなんて、しゃべる動機があればしゃべれるようになるものだ。逆に、しゃべる必要性を感じなければ、しゃべれるようにならない。ただそれだけのことだと思う。

大学時代の恩師である、故・井上忠氏がおっしゃっていた。英語なんて向こうに行けば子供でもしゃべってる、と。

問題は、上手にしゃべることではなくて、何を話すのか、という内容だと思う。

いくら流暢にしゃべったところで内容のないことをベラベラしゃべれば少しも尊敬されないどころか、かえってばかにされるだろう。

私が危惧するのは、文章問題とて最近のセンター試験は実用主義に傾斜しているのではないかということである。

高校時代、英標に出てくるような、名文を繰り返し音読した。それが、自分の血肉になったと思う。

そういう英文が身に付けば、しゃべれるようにも書けるようにも、自然となってくる。それが、私の実感である。

しょうもない内容しかしゃべれなければ、しょうもない交流しかできないだろう。

しかし、ヘミングウェイやリンド、ハックスリーやニュートンやラッセルなどの名文を繰り返し読んで、その一節が会話の端に現れるようであれば、中味のある相手と中味のある交流ができるのではないだろうか。

また、そういった人たちの文章を原語で読めるようになることが、外国語を学ぶことの喜びではないだろうか。

 

| | コメント (0)

2019年11月17日 (日)

ドラマ「素敵な選TAXI」

素敵な選TAXIというドラマがあったのは何年前だろう。

今思い出すのは、過去に戻って選択をやり直しても結果は変わらなかった、という内容である。

意外とそういうものなのかもしれない。

私たちは(というか私は)、この選択で未来がどう変わるか、と思って選択を悩むのだが、案外、どっちを選んでも未来は大して変わらないのかもしれない。

だから、あまり悩まないでいいのかもしれない。

気楽に選択すればいいのかもしれない。

それに、どっちを選んでも変わらないと思っていれば、あのときああしていればと後悔することもなくなるだろう。

| | コメント (0)

«さようなら、実家よ