2019年5月18日 (土)

たつみ食堂の思い出

昔をやたら振り返るのは年を取ったってことなのだろうか。

記念すべき1000エントリ目だが、今日は「たつみ食堂」について書く。

大学に入って1年と2年のときは、久我山に住んでいた。

初めての一人暮らしで、やはり食べることはたいへんである。

自炊も疲れて途中でやめてしまった。

近所にあった定食屋が、「たつみ食堂」だった。

まだ乳飲み子を抱えていた若い奥さんと、その親世代のお母さんとが切り盛りしていた。

こんなことを思い出したのは、今、吉本の「学食はおふくろの味?」というのを見たからだった。

瞬間的にたつみ食堂のことが思い出されたのだった。

唐揚げ定食はすごくおいしかった。鶏の唐揚げはカリッとして中はジューシー。

レモンをかけていただいた。キャベツの千切りとともに。千切りはとても細かった。

小食だった私はごはんの量に驚き、しばしば半ライスで注文した。

テレビで、小林薫の「イキのいい奴」なんかをやっていたのを覚えている。

もう一つの、駅に近い定食屋は民放の歌番組なんかを流していたが、ここは専らNHKだったような気がする。

あれから30年以上経った。

あの頃若かった奥さんも、お年を召されていることだろう。

あの店はまだあるのだろうか。

皆さん元気でいるだろうか。

そんなことをふと思った。

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2019年5月16日 (木)

『生死同源』篠原佳年

救いを求めて(?)篠原佳年の『生死同源』を手に取ってみた。

もう19年近く前(!)に読んだ本。

この本は、読む時期によって心にヒットしたりそうでもなかったりするのだけれど、今の自分の心にはとてもヒットした。

いろんなスピリチュアルな本や哲学の本を読んできたあとでこの本を読むと、著者はこんなに早くから、こんなことを言ってたのだ、と、驚き。すごいと思った。

「いのち」「時間」「今を生きる」などについての考え方などはぴったりと重なるではないか。

というようなことを思った。

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食べ物とがん

私は小さい頃から、食べ物についてシビアなほうだった。

例えば、ハムやベーコンなどには発色剤が使われていて、それは発がん性があるということを母から聞き知って、うちではハムやベーコンなどは滅多に食べなかったし、贈り物でもらったハムはうちで食べずにハムの好きな人にあげていた。

大人になってからもそういう習慣は続き、私はハムなどの加工肉などは避けてきた。

でも、どれだけそういうものを避けてても、がんになるときはなる。

加工肉以外、例えば「体にいいからしっかり摂りなさい」と言われる野菜さえ、発がん物質は含まれているという。

じゃあ、あれがいいとかこれが悪いとか言わないで、その時食べたいものを食べた方がいい。

これが、今の私の結論だ。

不食で有名な秋山さんも、その著書で、神が作ったものに、人間にとって「悪い」ものはない、というようなことを書いておられる。

いたずらに神経質になるよりも、食べることを楽しむ方がいい。

食べたいものを食べて、おいしいおいしいと言って喜ぶほうが、よほど健康にいい。

そう思う。

「今を楽しめ」。そういうことだ。

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2019年5月15日 (水)

ベーグルヤマオカ

昔、箕面に住んでいた頃、ベーグルヤマオカというベーグルのお店によく買いに行った。

もう10年ぐらい前になるだろうか。

妻と、まだ小さかった息子を連れて。

とてもおいしいベーグルだった。もちもちして、食べ応えがあって。満足感を与えてくれた。

そんなことを思い出していたら、幸せだったあの頃を思い出してしまった。

ネットで検索したら、ベーグルヤマオカはどうやら閉店してしまったらしい。

どうしたんだろう。よく繁盛していたのに。

お店の人、元気だといいな。

この部屋に、ベーグルヤマオカの紙バッグがある。

不用意に捨てたりしてなくてよかった。

大切に、取っておきたい。

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2019年5月10日 (金)

自分を許し、人を許す

昨日、このブログに、自分を許せなかったことを書いた。

見てみたら、過去にも何度か同じようなことを書いていた。

今朝のこと。

妻がまた、子供の弁当に箸とおしぼりを入れ忘れたと電話してきた。

以前もそういうことがあったのだが、私は、腹も立たなかった。ああ、そういうことってあることだ。誰でも忘れ物をしたり、うっかりしたりすることはあるものだと、素直に思うことができた。

それは、昨日わかった自分のポカがあったからではないか。

誰でもうっかりすることはある。勘違いやミスは誰にでもあることだということを、身をもって教える(学ぶ)ための、神さまからの贈り物だったのではないか。実に素直にそう思えたのだ。

自分を許し、人を許すための旅だったのではないか。

余談だが、昨日見た小田さんの密着ドキュメントの中で、「許し合って」という歌詞が出てきた。

私の記憶が確かなら、若い頃の小田さんの歌詞には、そういう文言はなかったと思うのだが、それを聴いてはっとした。

小田さんもお年を召されてそういう境地にたどり着かれたのだろうか、いやあるいは、もともとあったのだけれども、若い頃は気恥ずかしくてそういう言葉を歌詞に入れられなかったのか。

よくわからないけれども、なんというか、その歌を聴いていて、とてもじ~んときた。

閑話休題。

妻がそういうミスをしてくれたお蔭で、私に気づきが与えられた。ありがたいことだ。たいていのことはたいしたことの無いことだ。笑ってやり過ごすのがよい。

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2019年5月 9日 (木)

密着ドキュメント「小田和正」

NHKで5月3日深夜に放送された「密着ドキュメント 小田和正」を見た。

テアトロンの「YESーNO」のところで、涙が溢れた。

いつも小田さんの音楽とともにあった。

小田さんと同じ時代を生き、小田さんの音楽に出会えて本当によかった。

今年は絶対にまた小田さんに会いに行きたい。

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2019年4月30日 (火)

平成最後に聴いた曲

平成最後に聴いた曲は、キリンジの「双子座グラフィティ」だった。

なぜかこの曲を聴きたくなって、バスの中でウォークマンで聴いていたら、思わず涙があふれてきてしまった。

すべてはこの曲から始まった、といっても過言ではないかもしれない。

この曲と出会ったのは、小・中学校の同級生だったN君と大人になってから再会したときに、N君がこのCDを聴かせてくれたからだった。

その出会いがなかったら、私は甲陽音楽学院に行ってなかったかもしれない。

神戸に行ってなかったら、また、キリンジのファンになっていなかったら、妻と出会うこともなかっただろう。

とすれば、今の家族もあり得ないだろう。今の自分はあり得ないだろう。

・・・・・・というようなことを考えると、まさに人生とは縁の糸によって織りなされたタペストリーであると言える。

その時には、それがどんな意味があるのかわからない。後になってから初めて、ああ、そうだったのか、とわかる。

縁の糸によって織りなされるタペストリーが最終的にどんな模様になっているのか、それは出来上がってからしかわからないようになっている。

人生そのものを歩んでいるときにはわからない。人生を終えて人生を俯瞰したときに初めてわかる、そういう玄妙で摩訶不思議な妙な構造を、我々は生きているのかもしれない。

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平成から令和へ

まもなく平成が終わり、令和が始まろうとしている。

この厳粛で、なおかつ華やいだ雰囲気は何だ。素晴らしいではないか。

正直、私は天皇陛下が譲位なさるご意向を表明されたとき、ええっ?!と思ったのだった。なぜなら明治以降の憲政史上前例がなく、あまり好ましからざる影響があるのではないかと思っていたからだ。保守系の有識者の中にも驚きをもって捉えていた人が多かったように思うし、陛下の”わがまま”というような捉え方をしていた人もいたような気がする。

だが、いざこのときを迎えてみると、天皇陛下がご存命のうちに代替わりが行われるというのは、案外いいのではないかと思うようになった。国を挙げての盛大な行事となり、その厳粛さと華やぎの雰囲気はオリンピックとか万博など比べるべくもない。

もちろんご譲位が政治利用されたり、二重権力となったりするような様々な懸念は払拭されなければならないが、そういった問題がクリアされるならば、譲位というのはよいのではないかと、今このときを生きていて、そう感じる。

新しい時代の始まりが天皇陛下の崩御によってであるというのは、やはり暗いものがあり、それよりは、陛下がお元気なときに、新しい時代の始まりを国民あげて言祝ぎ、新しい天皇陛下のご即位を言祝ぐというのは素晴らしいものだと思う。

このような素晴らしい雰囲気の中で始まる令和の時代が、よい時代となりますように。

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さようなら、平成

今日が平成最後の日。

自分は昭和の子だと思っていたのに、振り返ってみると2:3の割合で平成の方が長かったというのが驚きである。

昭和が終わり、平成という元号を聞いたとき、なんだかあまりぱっとしないなと思ったのを覚えている。言葉の響きもそうなのだが、「平らか」というのが、何かなじめなかった。

さておき、平成は自分の人生でもいろんなことがあった。

大学を卒業した。

結婚して子供も生まれた。祖父母や母が他界した。

大きな怪我や病気、それに伴う手術や入院も経験した。

まさに、元号とは裏腹に、自分にとっては激動の時代であった。

平成を無事全うすることができ、新しい、令和の時代をも生きることができることに感謝したいと思う。

令和はどうなるだろう。

私にとって、平和で、穏やかな時代になってほしいと思う。

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2019年4月25日 (木)

そこに意味はあるのか、ないのか

人生は苦しいことつらいこと、やるせないことが多い。

そういうとき、どうやって乗り越えるのだろうか。

諸富祥彦さんは、『悩み抜く意味』(幻冬舎新書)で、「人生の苦悩には意味があり、それは人生からの問いかけである。その意味を懸命に求めなければならない」というようなことを書いておられる(端折っているので原文のままではない。)つまり、人生にも苦悩にも意味がある、それを発見するのが人生という旅だというような見方である。

私はとても励まされたし、私の人生に対する姿勢も同じようなものだった。

しかし最近、衝撃的な別の態度に出会った。

それは、起こっていることに意味は無く、人間が勝手に意味を付与して苦しんでいるだけだ、というものであった。

だから、起きることはただ起きるだけであり、ただそれだけなんだ、というものである。

これは、「さとり」系の阿部敏郎さんなんかが書いておられることだし、仏教というのもたぶんそういう態度なのだろう。また、池田晶子さんの本を読んでも、これに近いものがあると思う。

いったいどっちなんだろう。どちらの態度を取ればいいのだろう。

たぶんこれは、どちらが「正しい」というようなものではなくて、どっちの態度を取った方が「楽に」生きられるかという問題だと思うけれども。

難しいね。

これを書くために、諸富さんの本を本棚から引っ張り出してきたら、その中に、確定申告のときに必死に探して見つからなかった生命保険控除の証明書が挟まってた。こんな大事なもの無くすはずも捨てるはずもないと思って、確定申告の前に探し回ったのに。あれから2~3か月経って、意外なところからポロッと見つかった。そういうことってあるんだね。

人生も、必死になってやっても解決しなかった問題が、ある日ポロッと、あっけなく解決されてしまう、そういうことってあると思う。

だから、苦しいことがあっても、すぐに解決しそうにない問題があったとしても、いつか何とかなるもんだという希望を持って生きていこうと思う。

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