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2006年12月27日 (水)

『芋たこなんきん』に見る死への恐れ

先週の『芋たこなんきん』も面白かった。
実の母の命日に際し、長男の清志くんが、「死んだら、何も見えんように
なるんやろ。何も聞こえんようになるんやろ」と言って死を恐れ、
今まで殺してしまった虫たちの墓を作って手を合わせたり、ふさぎ込んだり
する様子が描かれていた。

人はいつか必ず死ぬという厳然とした事実の前に立ちすくみ、
死を恐れたり、死んだらどうなるのかと考え込んでしまったりすることは、
人生のなかで誰しも一度は経験することと思う。私もまた、幼稚園に入るか
入らないかの頃に、この悩みに直面した。だから、ドラマの清志くんの様子が、
まるで幼き日のわがことのように思えたのだった。

死ぬというのはどういうことなのだろう?
意識がなくなるというのは、どういうことなのだろう?
今、こうして考えている自分がなくなるというのは、どういうことなのだろう?

また、死んでから仮にあの世があるとすれば、この自分という意識がずっと
つづくことになる。それもまた、恐ろしかった。この意識が永遠に続くというのは
どういうことなのだろう? 永遠というのはどこまでいっても終わりがないことだ。
この私がずっと終わることなく何億年も何兆年も存在する。それはそれで恐ろしい。

無になることも怖いし、永遠に存在し続けることも怖い。
幼き日に、そう考えて、ずいぶん憂鬱になったことがあった。
大人になるにつれて、日々の忙しさのせいで、そういう悩みもいつしか忘れてしまった。

今は、これといった確定的な答えはないけれども、
私が今こうして「生存」している形式とはまったく別の「存在」のありようがあるのでは
ないか、と、漠然と考えている。

私達は、時間と空間のなかに三次元的に存在しているが、それとは全く違った次元の
存在の仕方があるのではないか。そして、それは、三次元のこちらから完全に把握
することができず、また、三次元の言葉では語ることもできないのではないか、と。

ドラマのなかで、町子は、目を閉じればお母ちゃんの顔が見える、呼びかければ答えて
くれる、という。それは、他者の死に対しては答えになっているだろうが、
「私自身の死」という形而上的な疑問は解消しない。

子どもは得てして感受性が強く、大人では忘れていたような形而上的なことを考えたり
するものである。そんなとき、身近にそういう疑問を一緒になって考えてくれる大人、
形而上のわかる大人がいてくれたらなあ、と思うのである。

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