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2007年11月30日 (金)

弁証法的な人生の歩き方

昨夜のNHKの番組で、僧侶の玄侑宗久さんが言っていたけれども、
ある出来事が、捉え方によって良くなったりも悪くなったりもする。
例えば、筆箱を落とした→悪いこと、でもそのお陰で落ちていた
1万円を拾った→良いこと、その時机の角で頭をぶつけて入院した
→悪いこと……という例で、小学生に説明していた。

今日、ふと道を歩きながらこれまでのことを考えていた。
私が神戸に来たのは、純粋に音楽を楽しもうと思ってやっていた
岡山のバンドの人間関係のゴタゴタに嫌気が差してのことだった。
神戸に来て本当によかったと思う。音楽的にレベルを高めることができた。
多くの良き友に出会うことができた。しかし、逆に考えれば、
岡山のあのいやな人間関係があったからこそ神戸に出てくる
気持ちになれたのであって、岡山でのことを恨むのではなくむしろ
感謝しなければならないのではないだろうか、と。
そういう意味ではあの人もあの人も、ある意味私を外の世界に
押し出してくれた仏の化身と言えるかもしれないのだ。

そう考えれば、過去の無量無数の出来事が連なって、今の私がある。
すべてが、今に繋がっている。過去は、今現在の土台であるとも言える。

また、こうも考えられるかもしれない。
岡山で純粋に音楽を楽しもうと思ってバンドをやっていた。=正
そのバンドの人間関係がゴタゴタとしてきた。=反
神戸に跳躍した。=合

ヘーゲルの弁証法的に考えれば、正に対して、反という事態が出来し、
それを止揚して新たなる次元に跳躍した。

だとすれば、今後も、同じようなことが起こりうると思っていた方がよい
だろう。たとえば、今やっているバンド活動の中でいやなことがあるかも
しれない。しかし、それをきっかけにより高い次元に跳躍できるなら、
それは良しとすべきなのだ。
たとえ、今の状態を否定するような事態が起ころうとも、
それをきっかけにしてより高い次元に止揚すればよいのだ。

人生が流動的なものである限り、また、様々な縁によって成り立っている限り、
そのように覚悟を決めていた方がよい。それが、いかなる事態にも動ずること
なく人生の海の中を泳いでいく秘訣と言えるかもしれない。

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