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2008年1月24日 (木)

昨日三宮で

昨日の夕方、三宮で路上ライブをやっているのに出くわした。
さんちかから階段で地上に出てきた辺りで、編成はアルトサックスの
カルテットだった。何人かが足を止めて見ていた。
「枯葉」をやっていたのだけれど、寒かったし、それ以上聴かずに
駅のホームへと急いだ。

インストで「聴かせる」のはかなり難しい、と思った。
アルトの人はかなりイケメンだったけれども、まあ中級者ぐらいだろうか。
マーク6を使っているようだったが、音は飛び抜けて良いと言うほどでもない。
これがたとえば若くてカワイイ女の子が歌っていたりすると、それだけでも
ポイントは高いのだろう。インストは歌詞がないだけに、ほんとに音だけで
聴かせないといけない。だから、プロでインストをやっている人というのは
ほんとにすごいんだなあ、と思う。

私も、どうやったら聴いている人に訴求できるか、インパクトを残せるか、という
ことを工夫しなければ。

ただ、この路上ライブを聴いて、やはりサックスの生音はいい、と思った。
CDで聴くのとは格段に違う。管がそこで鳴っている、空気が振動している、
というのが肌で感じられるからだ。それが、生でサックスを聴かせることの
メリットだということを感じた。

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2008年1月23日 (水)

NHK朝ドラ『ちりとてちん』と「過去の自分」

NHKの朝ドラ『ちりとてちん』は一見脱力系のドラマだが、
実は深いテーマを秘めている。
それは、「過去の(いやな)自分」ということだ。
新しい自分に脱皮したいと思うときに足を引っ張るのは
過去の自分であろう。主人公も今、その生みの苦しみと
格闘しているようだ。

たとえば、つらい失恋をした人にとって、その人との
思い出の場所を訪れれば、古傷が痛むだろう。

私自身もこの5年ぐらいでずいぶん変わった。
だから、古里を訪れると、過去の暗かった自分をふと
思い出したりして、あわててそれを振り払おうとしたりする。
だから、このドラマの主人公の気持ちはよくわかる。

そう言えばたしか石川啄木も「ふるさとは遠くにありて
思ふもの」とか歌っていたはずだ。

人は日々変わってゆく。
それが少しずつではあっても、自分の願う成長という方向であれば
よいことだと思う。

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2008年1月19日 (土)

NHK『新型インフルエンザの恐怖』

NHKスペシャル第2夜『新型インフルエンザの恐怖』を見て、
ますます暗澹たる気持ちになった。インドネシアでは
人→人への感染が見られ、多数の死者が出ており、
感染爆発は時間の問題ということだった。
そこへきて、中国の南京でも人→人の感染が確認されたという。

日本に上陸したらまさに非常事態になるだろうということだった。
このような形で危機が訪れようとは一体誰が予想しただろう?
日本にとっての危機は、北のミサイルだけではなかったのだ。
NHKが正面切ってこの問題を取り上げたというのも、
事態はそうとう深刻なところまで迫っているからなのだろう。
日本に上陸すれば64万人の死者が出るであろうという予測に
正直恐怖を感じる。

だが私は思った。
人々がテロに恐怖を感じているとき、池田晶子氏は
「テロでなくとも人は死ぬ」と喝破した。それに倣えば、
「ウイルスでなくても人は死ぬ」。

ならば、この瞬間瞬間を大切に生きよう、と。

人は、どういうわけか、明日も自分は生きている、と、何の根拠もなく
思い込んでいる。けれどもそれは何の保証もない。災害に遭うかもしれないし、
事故に遭わない保証はない。だから、生きている今の一瞬一瞬が大切なのだと。

明日死ぬかもしれないと思ったら、日常はどんな風に見えてくるだろうか。
家族と共に過ごす夕餉のひとときが、とてつもなくかけがえのない貴重なものに
思えてくるのではないだろうか。

本当に感染爆発が起こるかどうか、わからない。
しかしそれは、死について=生について考える一つのきっかけを与えてくれた
のではないだろうか。

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2008年1月18日 (金)

クラシックを聴くとなぜ頭がスッキリするのか

ときおり無性にクラシックが聴きたくなることがある。
聴くとたいてい頭がスッキリする。
クラシックといっても、そういうときに聴くのはたいてい
バロック~古典派の音楽である。
これらの音楽を聴くとスッキリするのは、それが純粋に理論によって
できている構築物だからなのだろうと思う。
音楽というと、喜びとか悲しみとか怒りといった情念を表現するもの、
と思われがちだが、この時代の音楽は、情念の色に染まらない
数学の公式とか物理の法則のようなものの集まりなのだ。
だから、無条件に美しい。

それは例えば、哲学の言葉が「私はこう思う」「世の中こうあるべき」式の自己主張ではなく、
純粋に論理によって成り立っているというのと似ている。
小説や思想の言葉は人間の自己(エゴ)によって染まっている。
けれども、哲学(思想ではない)の言葉は、現実を限りなく透明化しようとする。

それと似ているのかもしれない。
純粋に音宇宙の言語だけで成り立っている音楽は、人間の持つさまざまな
煩わしさを解毒する作用があるのかもしれない。

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2008年1月16日 (水)

NHK『パンデミック・フルー 感染爆発』

NHKのドラマ『パンデミック・フルー 感染爆発』を見た。
近未来に予測されている新型インフルエンザの感染爆発が
日本で起こった場合、厚労省や病院などの現場はどうなるか、
ということを描いた作品だった。

あまりにリアルで、こういったことが近い将来起こるのかと思うと、
見ている間中暗澹たる気分になった。しかし、たんなる娯楽ではない
こういうドラマも必要だろう。NHKでなければ作れないであろうドラマ
だったと思う。

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2008年1月 7日 (月)

座右の銘

人にはそれぞれ、座右の銘というのがあると思う。
それは、同じ人でも年齢によって変わっていったりもする。
若い頃には自力に恃むような言葉が好きであっても、
年を取ると自然法爾というような言葉が好きになったりする。

産経新聞の朝刊に、一日に一つずつ「きょうのことば」という
コラムが連載されている。それほどたいした言葉でもないものも
あれば、人生の真髄をうがったと思えるものもある。

その中で一番印象に残っているのが、
「過去と他人は変えられない。しかし、自分と未来は変えることが
できる」
という言葉である。

人は、自分の周りが変われば世界が良くなると信じ込んでいる。
政治家が悪い、経済人が悪い、などなど、世の中が悪いのは、
世の中が悪いせいであって、けっして自分が悪いせいだとは思わない。

しかし、その世の中を認識しているのは自分自身であって、自分が変われば
世界が変わる、というのが宗教的な考え方の根本であるようだ。
どんなにエネルギーを費やして他人を変えようと思ったって、無理がある。
いわゆる世直しのようなことを考えるのではなく、自らの心を変えてしまう、
これはコペルニクス的転回である。

誰の言葉であったか忘れたけれども、ある程度人生と宇宙の真実に
気づいた人は、こういう境地に達するのだろうと思う。

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2008年1月 6日 (日)

情と理

今はあまり更新されていないのが残念なのだが、
西洋占星術家のマドモアゼル・愛さんのホームページが面白い。
氏によれば、人間は最後に情をとるか、知(わたしは「理」と言い換えたい)をとるかの
二つに分かれるという。
さて自分自身はどうなのだろう。

自己分析すると、幼いころは圧倒的に情の人間だったのだが、歳を取るにつれて
理の面が多くなっているような気がする。今では圧倒的に「理」の人間であるような
気がする。

情を優先させると生きていくときにたくさん傷ついたりする。
そういうことが多かったために、自分を理で固めて自己防衛してきたのだろうか?

いずれにしても、情と理とどちらをとるかというようなシビアな二者択一の場面に
出会わないのが一番良いと思う。

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