« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月21日 (木)

I was born.

吉野弘の『I was born』という詩を国語の教科書で習ったのは、
高校一年の時だったろうか。

思春期の少年が夏の夜、白い服を着た妊婦を見て、
産まれるということが「I was born.」という受動態である意味を
了解した、というような内容だったと記憶している。

産まれたばかりの子どもを見ていると、そのことを思い出した。

その目は、一体ここはどこ? というように不思議そうに周りを
見ている。

その泣き声は、苦しみの多いこの世に産まれ「させられた」ことへの
悲しみのようにも聞こえる。

手足を動かすのを見ると、自由自在で何不自由なかった世界から
不自由なこっちの世界に来たのがもどかしいようにも見える。

彼は、一体何処から来たのだろう?

新しい命がこの世に誕生するのはおめでたいことであるが、
しかしそれは広い意味での親のエゴとも言える。

仏教では「生老病死」と言って、生まれることもまたひとつの
苦しみだととらえている。

しかしながら、この世界に生まれた以上は、その人生を
思い切り楽しんでほしいと願わずにはいられない。

親には、子どもの人生に最後まで責任を持つという
絶対的な義務が、あるはずなのだと思う。

| | トラックバック (0)

生命の猛々しさ

8月1日に妻の出産に立ち会った。
そこで私が目にしたものは、猛々しい生命の姿であった。
人の中から人が出てくる様子は、あのB級ホラーのエイリアンを
連想させた。「感動」というような言葉とは、少し違うものだった。
そして、原始より、人はこのようにして生命をつないで来たのだな、
という感慨が起こった。

無事出産が終わり、私の腕の中に抱かれたのは、
辛うじて人の形をしているが、いまだ人間になっていない
生命体であった。

生命というのはかくも猛々しく、原始的なものである。
人はそこで生と死の深淵を目にするのである。
それは、日常というカテゴリーに入れることができない、
非日常の光景なのである。

だから、昔から出産の現場に男が入らないという慣習は
理にかなったものと言えるだろう。

女性はそれに耐えうる精神的なタフネスを持っている。
しかし、男性の神経は繊細にできているから、それに
耐えるのは大変だ。

生命は、生きるためには容赦しない。
生命は猛々しいものである。
それが、私が立ち会いで学んだことである。

都市化された人間は、このことを忘れてはいないだろうか。
昔から、人間はこの猛々しさをうまく飼い慣らしながら
日常生活を営んできた。

この猛々しさを理性でコントロールできると思うのは、
都市化された近代人の傲慢というものではないだろうか。

新しい命が産まれたという感動と共に、
私は生命の真実の姿に立ち会ったという気がした。

| | トラックバック (0)

2008年8月 7日 (木)

新しい辞書

新しい辞書を買った。
三省堂の『新明解国語辞典』。
定評ある辞書だが、一時期の「新解さん」ブームに反発して、
しばらく別の辞書を使っていた。

しかし、辞書は複数使った方がよいので、
やはり新明解を買うことにした。

新しい書物を手に取るのはとてもうれしいものだ。
そして、新明解はやはりいい辞書だった。

これで2900円はとても安い。
これで何年もの間、楽しむことができると思うと、
なんと豊穣な楽しみなのだろうかと思う。

こういうところにお金を惜しんではいけないんだな。
と、つくづく思う。

| | トラックバック (0)

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »