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2009年10月21日 (水)

音楽と神

最近思うことだが、音楽と神とはとてもよく似ている。
どちらも、形がない。
しかし、ある形をとってこの世に顕現する。
神が、人間にとってさまざまな相貌を伴って顕現するのと同様、
音楽もまた、さまざまな形(ジャンル)として顕れる。
しかし、どんな相貌を伴おうとも、それは神の一部である。

神を表現するにはある形式が伴う。
それが、宗教におけるさまざまな儀式になるのだろう。
カトリックの儀式、プロテスタントのそれ、また、民間信仰のそれ。
音楽においても同様で、それはクラシックであったり、ジャズであったり、
現代音楽であったり、さまざまな表現様式となる。

けれども、「形式」にとらわれることは、かえって本質を見誤ることにも
なりかねない。

人によっては、「神」を笠に着て他人を抑圧したり、脅したりもする。
それは、神の本質とは何の関係もない。
しかし、そういう悪人に対しても、神は愛を注いでいるに違いない。

ミュージシャンにもたまにそういう人がいる。
「そういう気持ちで音楽やらんといてや」みたいなことを言ったり。
しかし、音楽がすべての人を愛している限り、
ただの人間が他人に対してそういうことを言う権利は何もない。

宗教の人が信仰歴の長さを誇ったりするのと、ミュージシャンがキャリアの長さを誇ったり
するのとはよく似ているが、そういう自慢はおそらく神や音楽から見れば何の意味もない。

そのときどれだけ神や音楽を愛しているか、それしか神や音楽にとっては
関係ないのだと思う。キャリアの若い人が、純粋に音楽を楽しんでいるほうが、
音楽に対する態度としては「正しい」のではないだろうか。

宗教団体はお金が絡む。
いつの間にか、神を感じることよりも、お金の方が中心になってしまっていたりする。
これは本末転倒である。
ミュージシャンの中にも、先日逮捕された詐欺師のKのように、音楽よりも
お金が中心になってしまった人もいる。

だがわれわれ(アマチュアは特に、またたとえプロであっても)は、
音楽に敬意を表し、音楽を愛するという原点を忘れるべきではないだろう。

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2009年10月 9日 (金)

中川昭一氏の急逝を悼む

中川昭一氏が亡くなった。
テレビの速報を見たとき、信じられない気持ちだった。
嘘だろ、嘘か何かの間違いであって欲しいと願った。
しかし、その願いも叶わぬまま、時間が経過し、通夜と葬儀が執り行われた。

氏が亡くなったということはようやく事実として認識できるようにはなったが、
氏を喪ってしまった喪失感と哀しみは、いまだに癒えることはない。

日本はほんとうに大きな人物をなくしてしまったのだ、そして残されたのは
おふざけや私利私欲で政治をやっているとしか思えない人々――。

残念だが、この世がますます濁世の様相を色濃くして行くにつれ、
ほんとうに心の清らかな人はあちら側に召されてゆくのだなあ、と。

私は直接には氏のことを知らない。
ただ、氏の言動を通じてしか、氏の人となりを知ることはなかったが、
氏の人柄というものは自然とにじみ出ていた。
あの会見の後、氏のことを馬鹿にしたり茶化したりするようなテレビ芸者たちが
いたが、まさに「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」。
下衆な者どもには、高貴な人の志というものは知るべくもないのだろう。
私はテレビの政治バラエティを見るのがつくづくいやになった。

だが、氏の人柄が高潔であったことは、通夜に3000人、葬儀に4500人もの
人々が集まったことでも容易に知られることである。

もう一つ思ったのは、人というのはいとも簡単にそして急にいなくなってしまう
ものなのだ、と。そこにいて当たり前だと今まで思っていた人が、今はもう
いない。あるのはその亡骸だけだという喪失感――。

だから、「一期一会」と人は言うのだ。

その人が、今ここにいることの、文字通りの有り難さをかみしめなければ――。

あまりにも大きな人物を喪ってしまったことに、
心からお悔やみを申し上げ、哀悼の意を表するものである。

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