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2009年10月 9日 (金)

中川昭一氏の急逝を悼む

中川昭一氏が亡くなった。
テレビの速報を見たとき、信じられない気持ちだった。
嘘だろ、嘘か何かの間違いであって欲しいと願った。
しかし、その願いも叶わぬまま、時間が経過し、通夜と葬儀が執り行われた。

氏が亡くなったということはようやく事実として認識できるようにはなったが、
氏を喪ってしまった喪失感と哀しみは、いまだに癒えることはない。

日本はほんとうに大きな人物をなくしてしまったのだ、そして残されたのは
おふざけや私利私欲で政治をやっているとしか思えない人々――。

残念だが、この世がますます濁世の様相を色濃くして行くにつれ、
ほんとうに心の清らかな人はあちら側に召されてゆくのだなあ、と。

私は直接には氏のことを知らない。
ただ、氏の言動を通じてしか、氏の人となりを知ることはなかったが、
氏の人柄というものは自然とにじみ出ていた。
あの会見の後、氏のことを馬鹿にしたり茶化したりするようなテレビ芸者たちが
いたが、まさに「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」。
下衆な者どもには、高貴な人の志というものは知るべくもないのだろう。
私はテレビの政治バラエティを見るのがつくづくいやになった。

だが、氏の人柄が高潔であったことは、通夜に3000人、葬儀に4500人もの
人々が集まったことでも容易に知られることである。

もう一つ思ったのは、人というのはいとも簡単にそして急にいなくなってしまう
ものなのだ、と。そこにいて当たり前だと今まで思っていた人が、今はもう
いない。あるのはその亡骸だけだという喪失感――。

だから、「一期一会」と人は言うのだ。

その人が、今ここにいることの、文字通りの有り難さをかみしめなければ――。

あまりにも大きな人物を喪ってしまったことに、
心からお悔やみを申し上げ、哀悼の意を表するものである。

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