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2011年7月 8日 (金)

テレビ東京ドラマ『鈴木先生』

実はまだ、最終回の録画を全部見ていないのだが、テレ東『鈴木先生』は実に見応えのあるドラマだった。

価値観が多様化し、一つの物語では生きられない時代、自分で考えさせる教師と、それに応じて自分で考え、問題を乗り越えようとするたくましい中学生の姿が描かれていた。

学校ものと言えば、「金八」みたいな左翼教師や「ごくせん」みたいなヤンキー教師ばかりがもてはやされて、どうも見る気がしなかったのだが、この『鈴木先生』は可能な限り現実に近い教師像ではないだろうか。

中学生という多感な時期だけに、さまざまな問題がクラスで勃発する。
それに対して、ある一つの価値観を上から押しつけるのではなく、「何が問題なのか」を自分の頭で考えさせる。自分の頭で考えることを覚えた生徒は、もうけっして誰かに正解を教えてもらおうとはしない。自分(たち)で考えて、自分(たち)で納得できる結論を導こうとするのだ。

教師は、ある価値観を押しつけるのではなく、生徒自身が納得の上で、正解にたどり着けるよう、手助けをする役割にすぎないのだ。

もっともこれは、相手が中学生だから出来ることであって、相手が小学生ならば無理だ。論理的思考力も乏しいし、基本的な常識や社会通念というものを教え込まなければならない時期だから。また、場合によっては中学生でも微妙で、高校生から、という場合もあるだろう。

最終回の「鈴木裁判」は、集団リンチみたいでいやだな、と思っていたが、作者にとってはそれも織り込み済みで、生徒にそういう意見を言わせてもいる。最初は感情のぶつけ合いだったのが、次第に冷静になっていって、中学生とは思えないほどきちんとした議論が出来るようになってくる。フィクションだから、というのもあるが、これにはびっくりした。

自分の気に入らない生徒に対してや、相対立する意見を持つ生徒に対して、感情的に怒鳴りつけたり、有無を言わさず自分の考えを押しつけたりする教師はよくいるだろう。優等生であればあるほど、この人に逆らうと我が身が危ない、と思って、自分の頭で思考することをやめてしまい、教師に判断をゆだねてしまったり、自分の考えを封印してしまったりするものだ。そういう人は、学校を卒業して大人になると、自分の考えが持てない抜け殻になってしまったり、自分のやりたいことがわからなくなってしまったり、「指示待ち族」になってしまったり、「大きな物語」を求めて新興宗教に入ってしまったり、という弊害を生ずる。

そうならないために、自分(たち)の頭で考え、自分(たち)自身で納得して問題を解決する能力が必要なのだ。

「鈴木先生」は先行き不透明なこれからの時代、ありうべき教育の姿、ありうべき教師の姿を示してくれているような気がする。

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