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2011年9月27日 (火)

アリス『血の絆』

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久しぶりに「名曲覚え書き」を書こう。

アリスの『血の絆』。
私的にはアリスの最高傑作だと思っている『Alice VI』のA面の最後を飾る曲だ。

世に、男女の愛憎を歌う曲は多いが、親子の情愛を歌った曲はあまり多くない。
この『血の絆』は、母と子の情愛を歌った曲である。

私は、谷村新司は、シンガーソングライターの中では随一の詩人だと思う。
人生の深いひだにまで分け入った感のある詩の世界に、とても引きつけられ、心酔した。
それが、たしか、小学6年生の頃だった。
私にとって、谷村新司の詩の世界はまさに人生論そのものであった。
今から思うと、ずいぶん老成した小学生だったと思う。

『血の絆』は、そんな谷村新司の珠玉のような名作のうちのひとつである。
著作権の関係もあるようだから、ここに全部載せるわけにはいかないが、最後のフレーズが特に泣かせる。
「そのときはこの世にいないあなたを/心のどこかで呼ばせてください」。
「そのとき」というのは、「歌えなくなって年老いて、いつか必ず町を出るであろうそのとき」ということだ。
そのときには当然、母は他界してこの世にいないはずだろうから、という文脈である。

私は小学6年生でありながら、自分にもいつかそういうときが来るのだろうか、それはいつのことなのだろうか、と、漠然と考えながら、この歌を繰り返し繰り返し、カセットで聴いていた。そのことを思えば、時の流れは実に速い。

巷には、異性を引きつけるためにイキがっているような歌があふれているが、こういう歌がもっと広く知られてもよいと思う。

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2011年9月26日 (月)

まなざし

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母がこの世を去ってから、早くも2週間が過ぎた。

通夜や葬儀で慌ただしく、ろくに悲しみに浸っている余裕もなかった。

癌という病気だったので、ある程度覚悟はしていた。

だから、亡くなった時よりも、もう治らないかもしれないと知らされたときの衝撃と悲しみの方が、ずいぶん大きかったように思う。

今の私は、不思議なほど、落ち込んではいない。

なぜなら、これから責任を持って家族を育てていかねばならないからだ。

そして母もきっと、それを願っているはずだからだ。

そう思うと、不思議と、かえって力が湧いてくるのである。

肉体を持った母にはもう会うことができないが、わが息子を見るまなざしを通していつでも母に会うことができる、と感じる。つまり、私が息子を見るとき、母もまたこのようなまなざしで息子(私)を見ていたのか、親が子を見るまなざしはこのようなものであったのか、と感じることができるのだ。だから、私が息子を見るとき、母はいつもそこにいる、と。

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2011年9月16日 (金)

闘い終わって……

平成23年、9月12日の昼下がり、4年半に亘って癌と闘った母が、浄土へと旅立った。

もうずっと、「その日」のことを頭のどこかに置いて母と接してきたので、後悔はない。

大腸の手術をしてからというものは特に、妻がいろいろと気を配ってくれて、母が喜ぶような所へ連れて行ったりして、思い出を作った。孫の顔を見せることもできた。

ただ、医師からの食事制限などで、おいしいもの好きな母にとっては、この4年半は辛い日々だったのではないだろうか。「からいキムチが食べたいなあ」とか「クリームたっぷりの甘いもんが食べたい」と漏らしたこともあった。

結果、こういうことになるのなら、思う存分好きなものを食べさせてあげたかったと思うが、食事制限は医師の指示であるし、本人も回復を願ってそれに従っていたのだから、仕方ないとは思う。

ただ、やはり癌治療というのは変わらなくてはいけないのではないか、と思う。

今朝の産経新聞に、故・梨元勝氏の奥さんの話が載っていたが、共感するところ大であった。

抗がん剤は、生活の質を著しく低下させる。

また、何でもかんでも切ればいいというものでもない。

私の場合、昨年6月に肺転移が見つかったときに、もう少し時間をかけて他の方法を探せなかったか、と思われてならない。わずか7ミリほどの病巣を取り除くために、肺葉の三分の一を切除するというのはいかがなものだろう? それでも母は、治りたい一心で、医師を信頼して手術を受けた。

術後には汗をかきながら、歩行訓練を頑張っていたのだが、ほどなくして脳に転移し、再入院した。

退院時には、血液検査は何の問題もなかったのだから、肺を切ったことによって急速に脳への転移が広がったとしか考えられない。

こういう医療はもう時代遅れなんだと思う。

切れば実績になる、というのもあるだろう。たとえば、5年生存率、などと言っても、6年目に死んでしまってはその数字は意味がない。

抗がん剤にしても、製薬会社と医師とが接待漬けでずぶずぶということもあるのだろう。

こういう現代医療も、大きく変わらなければならないのではないだろうか?

話がずいぶんそれた。

本当はこういう事を書くつもりではなかった。

単純に、追悼の文章を書きたかったのだ。

母は、皆に慕われた、太陽のように明るい人であった。
母を悪く言う人には出会ったことがなかった。

それでも、入院中は、ネガティブな面がかなり出ていて、病というのは人をこんな風にさせしまうのか、と思った。

それでも、最期には看護婦さんたちが体を清拭してくれて、お化粧をしてくれた。感謝せずにはいられない。

今頃は向こうへ行って、思う存分好きなものを食べていることだろう。

もう何も思いわずらうことはない。

母と私がこの世で、親子の縁をいただき、45年間を一緒に過ごすことができた、そのことにも感謝せずにはいられない。

ありがとう。

南無阿弥陀仏。合掌。

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2011年9月 7日 (水)

死にかけたこと。

折に触れ、ふと思い出すことがある。
それは、私は過去少なくとも2度死にかけたことがある、ということだ。

大学時代のことである。
大雨の深夜、高速道路を一人、ボロ車で走っていた。
疲れたので、SAに入って休憩しようと思った。
ウインカーを左に出して、ハンドルを切り、SAに入る道だった。
激しい雨だったので、轍に水がたまっていたのだろう。
急に車がふわっと浮き上がったようになり、ハンドルが取られ、
自由がきかなくなった。
「ハイドロプレーニング現象」である。
教習所で習ったことが瞬時に頭をよぎった。
「もうだめだ、……このまま側壁にぶつかるんだ……」と思った。
しかし、奇跡的に、体勢を取り直すことができた。
減速し、無事SAに入ったときは、冷や汗でびっしょり、がくがくぶるぶる震えていた。
そして、何かに守られたんだ、と強く感じていた。

もうひとつは、これも大学時代である。
事情があって深夜3時頃、人を遠くまで送って帰る道でのこと。
疲労からか、もうすぐ着くという安心感からか、瞬間的に意識を失っていた。
いわゆる「居眠り」である。
知らぬ間に、センターラインをはみ出していたらしい。

後ろからの激しいクラクションと、パッシングでふと我に返った。
そして自分が瞬間的に居眠りしていたこと、センターラインをはみ出して、
もう少し遅ければ対向車と正面衝突して死んでいただろう事を知った。

クラクションとパッシングで目を覚ましてくれた後続車のタクシーに
どれほど感謝したことだろうか。

そして、やはりそのとき、なにか目に見えないものに守られた、と感じた。
それが神仏なのか、いわゆる守護霊と言われる存在なのかはわからない。
(私には、後者であるように思われた。)
「お前はまだ、死ぬべき時ではない」と言われたような気がした。
(その思いはとりわけ、ハイドロプレーニングの時に強かった。)

私はそのとき、まだ死ぬべき時ではなかったのだろう。
そうして今日の私がある。
まことに感謝すべきことだ。

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