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2013年12月19日 (木)

facebookの「不可能性」

facebookを始めてからもう三年にもなるだらうか。
facebookの賣り文句は「いいね!」で廣がるコミュニケーションださうだ。
しかし、私はこんなものでコミュニケーションが廣がったりはしないと思ふ。

我々が人と附き合つて行く中で、その相手はさまざまである。
そして、相手に応じて態度や物腰や言葉遣ひを變へる。
それが普通の交際と謂ふものである。

しかるに、フェイスブックは、親疎や遠近や上下關係の全く異なる人たちとのコミュニケーションを、一つの板の上でやらうとする。そこに、無理があるのだ。

私のFBFはざつと數へて150人程度である。
内訳は、ミュージシャン仲間、同窓生、恩師、地元の知合ひ、妻の友人などである。
親疎遠近も異なれば、思想信条も異なる。
然ういふ人たちと、同じ板の上でコミュニケーションなどできるはずがない。

私が辟易したのは、FB上で政治的プロパガンダを行ふ人たちである。
福島原発事故の後、「福島のものは危険だ」とか「福島の子供たちが危ない」とか「福島でこんなに奇形の作物が獲れています」などと、科学的根拠の全くないデマをFB上で行ふ人がいた。

また、選挙の時に、「安倍はファシストだ」とか「憲法改正をすれば日本は軍国主義になる」とか「自民党には絶対に入れないでください」など、汚い畫像入りでサヨク的な誹謗中傷を行ふ人がいた。

その人は、音楽の上では優れた人である。
しかし、残念ながら、その人の度重なるプロパガンダ投稿の所爲で、私はその人のことが嫌ひになつた。
「心が狭ひ」と言はれるかもしれぬ。しかし、仕方がない。
私は曲がった心とサヨク的心性が大嫌ひなのだ。

私も、たとへば氣に入った新聞記事やブログをシェアしたり、首相官邸の記事に「いいね!」をしたりすることがある。

さうひふアクティビティが相手のフィードに反映されれば、もし思想信条の異なる人であれば、私を嫌ひになることもあるかもしれぬ。

げにFacebookとは、知りたくもないことを知らされ、見たくないものを見せられるツールである。

したがって、親疎遠近上下の関係の異なる人と同じ板でコミュニケーションしようとすれば、結局のところ、今日は何を食べたとか、何處へ行ったとか、さういふ無難な話題しか書くことがなくなるのである。

かくして私は、なぜ人がランチの寫眞ばかりをアップしたがるのかを理解するに至ったのである。
それぐらいしか、萬人に「通じる」話題はないのである。

それで私は思ふ。
「Facebook? しょーもない!」と。

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2013年12月18日 (水)

読書『魂と肉体のゆくえ』矢作直樹著(きずな出版)

昨日、ある本を買いに書店に行ったところ、この本が目に入った。
目的の本と、この本、そして同じ著者による『天皇』の三冊をまとめ買いした。

正直、霊とか幽体離脱とかカルマとか、それ系の話には近づかないようにしているのだが、この本に書いてある内容はすとんと腑に落ちた。

人はこの世に為すべき使命を帯びて生まれてきているとか、この世は修行のようなものだとか、あの世はここと重なって存在するとか、納得できた。

あの世はこの世と重なって存在するというのは、天外伺朗氏の著書で読んでいたことだし、それは現代の最新の物理学とも矛盾するものではない。

私にとって、なるほどなと思ったのは、人はそれぞれに魂の段階が違うということだった。
人と話をしたり、ネットでのやりとりで、「この人、何でこんな簡単なこともわからないかなぁ」と思うことがしばしばある。そのたびに私は腹が立っていたのだが、もう腹を立てる必要はない。なぜなら、その人と私とは、魂の進化の段階が違うのだから。

つまり、まだ足し算引き算しか習ったことのない人に、微積分の話をしてもわからないだろう。
まだまだ何も知らない幼児は、自分に見えている世界だけがすべてだと思い込んでいて、それ以上のものがあるとはなかなかわからないものだ。

それと同じである。

幼児に向かって「何でお前はわからないのか!」と言ってみても詮無いことだ。
だから、腹を立てても仕方ない。
そうなんだ、まだ、わからないんだなぁ、と、愛を持って見てやるのがよい。

もちろん、私よりも魂の進化した人から見れば、私の方が幼児に見えるかもしれない。

閑話休題。

著者・矢作氏は、山から滑落した事故の後、「もう山へは来るな」という声を「聞いた」という。
そして、そのとき、「もう山はやーめた」と、山への執着をすんなり断ち切り、医学の道に邁進したという。

「幻聴だろう」と言う人もいるだろうが、私は同じような話を知っている。

私の大学時代の哲学の師である井上忠氏は、ご自身が東大の学生の頃、自分はなぜ生きているのかわからず、食事も喉を通らなかった日々の後、駒場寮の屋上にいたとき、「汝の罪は許された」という大きな声を聞いたのだそうだ。そして、そのとき、身も心も軽く、明るくなったという。

矢作氏も井上氏も、この世ならぬ存在の声を聞いたのだろう。

ただ、そういう声が聞こえなくとも問題ない。
日々、自らの為すべきことを丁寧に一生懸命為していればよい。
それが、この世での使命を果たすことなのだから。
そういうメッセージを、私はこの本から受け取った。

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