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2017年2月 6日 (月)

保守とは何か、サヨクとは何か。その思考の方向性

私は、保守とサヨクとは、その思考の方向性にあると思っている。

すなわち、
起こってくるすべての出来事を己の責任ととらえ、背負っていこうとする姿勢が「保守」の姿勢である。

これに対して、
自分のことを棚に上げて、ありとあらゆることをすべて他者のせい、社会のせいにするのが「サヨク」の姿勢である。

これは単に、政治的な態度だけではない。

日々の、われわれ一人一人の生きる姿勢でもある。

何か問題があったとして、その原因を他者に求めたり、犯人捜しをするような態度は、美しくない。

自分のことを棚に上げ、他者に責任を負わせるようなことは、生き方の姿勢として、美しくないのである。
それにだいいち、それでは自分自身が少しも成長・向上していかないではないか。

私は美しく生きたいし、日常の生活においても、ほんとうの保守でありたい。

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悪妻を得れば哲学者になれる

ソクラテスが言ったという言葉に、
「とにかく結婚したまえ。良妻を得れば幸福になれるし、悪妻を得れば哲学者になれる。」
というのがある。
名言だと思う。
そして私はこの言葉を励みにして日々生きている。

細君のおかげで、私は随分いろいろな本を読み、随分と思索した。
元々私は哲学志向なのだが、細君のおかげで私はますます哲学的になってきたように思う。
本を読み、思索し、実践する。
日々、その積み重ねである。

そして、悪妻は人を哲学者にするだけではない。
人をアガペーの人、愛の人にもするのである。

もし細君が私の理想とするような「良妻」であったなら、こんなに思索をすることもなかったかもしれない。
私は以前の自分のレベルにとどまっていただろう。自分の愛の容量だとか人格を大きくするために努力をしなかったかもしれない。

曾野綾子さんがよくおっしゃっていることなのだが、神はどこにいるか、と。神はあなたの目の前のその人のなかにいるのだと。

悪妻は、神が私に対して、人間的な成長を促すために遣わした、磨き石のようなものなのかもしれない。

そして、ソクラテスの言ったことは本当なのだと実感している。


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節分と恵方巻き

2月3日は節分だった。
我が家では恵方巻きの丸かじりと豆まきをやった。

私は、関西に出るまでは恵方巻きなるものの存在を知らなかった。
私の家では、節分の行事といえば、豆まきだけだった。
恵方巻きはもともとは花街のお遊びから始まったという説もある。
その起源もせいぜい江戸時代末期ぐらいからという説があり、けっして歴史の古いものではないだろう。
また、そういうお遊びに海苔業界が乗っかったものなのだろうから、日本の古い伝統というわけでもあるまい。
平安時代の文学には、節分の豆まきの起源ともいわれる追儺の鬼やらいというのが出てくるが、恵方巻きなんてのは(私の知る限りではあるが)けっして出て来ない。

だから、恵方に向かって、黙って丸かぶりしなければならない、なんてのは、所詮迷信に過ぎないと思っている。
黙って食おうがそうしまいが、幸福とは全く関係ない。
むしろ和気藹々と歓談しながら食事した方が、幸福感が増すのである。

それに、私が恵方に向かって黙って丸かぶりした年、私は自転車で転んで膝を骨折し、ひどい目に遭った。
だから、あんなものは迷信だと自信を持って言い切れる。

けれども大阪人の細君は、この迷信を信じ切っていて、先日の節分の折にも、子供らに「黙って食べないと幸せが逃げていく」などとのたもうていた。

そうして、豆まきの準備が遅いと言って子供らを怒鳴っていた。

いや、その怒気そのものが、「鬼」なんでしょうが。
その、人の心に巣くう「鬼」を追い払うための、豆まきなんでしょうが、と。
まったく、本末転倒だと思う。

ただ、私はそのことを表立って言わなかった。
言っても、相手が聞く耳を持たなければ意味が無いからだ。
こういうのは、本人がみずから気づくしかないのである。

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