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2017年7月24日 (月)

この世の中には

この世の中にはあまりにも美しいものがある反面、あまりにも醜悪なるものもある。
そういうものが、いやでも目に入ってきてしまう。
見てしまうと、また見てしまった、見なきゃよかったと後悔する。
美しいものだけを聴いていたいし、美しいものだけを見ていたいのだ。

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2017年7月13日 (木)

生と死と

こちら側で死ぬということは、向こう側に生まれるということなのだろう。

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メメント・モリ

メメント・モリ。=「死を思え」。
我々は、日頃、自分が死すべき存在であることを忘れて生きている。
だが、それは精神を弛緩させることにつながりかねない。
身近な人への感謝を忘れたり、不平不満がつのったり、くだらないネットサーフィンに時間を費やしてしまったり、くだらないことに一喜一憂したり、美しいものに気付かずに過ごしてしまったり…。

死を思うことこそが、かえって生を輝かせ、緊張感に満ちたものにするのではないだろうか。
それは、英霊の遺した言の葉を読めば一目瞭然にしてわかることである。

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2017年7月11日 (火)

つぶやき

正直、家に帰りたくないことがある。
妻がイライラして機嫌が悪いと。
でも、子供の顔は見たい。
このディレンマ。

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感謝

結婚もできるかどうかわからなかったような自分が、40を過ぎて伴侶を得て、二人の子供にまで恵まれた。
「お父さん」と呼ばれるようになった。
そのことだけでも感謝すべき僥倖ではないだろうか。

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2017年7月10日 (月)

日々を後悔なく生きているか

人はいつか必ず死ぬ、そしてそれは今日かもしれないし明日かもしれない、ということを強烈に感じ、ならば、自分の好きなことをやろうと心に決め、神戸の音楽学校に入ることを決意したのが14年前の春だった。

もうあれは14年も前になるのか。
今の自分は、果たして後悔しない日々を送っているだろうか。
家族ができたから仕方ないかもしれないが、収入や社会的立場や人からの見た目を気にして、「常識」に流されて、自分らしくあることを後回しにしていないだろうか。今再び、そんなことを考えるのである。

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2017年7月 7日 (金)

生きるとき、死すべきとき

私は以前、死にかけたことが二度ほどある。
一度は、深夜三時頃に車を運転中、ふっと眠りに落ちた。
次の瞬間、後ろからけたたましいクラクションが鳴り、ハイビームの光がルームミラーに映った。
私はセンターラインを大きくはみ出していた車を元に戻した。
後ろを走っていた車の運転手のとっさの機転のおかげで、私は九死に一生を得たのだった。


もう一度は、タイヤの溝がなくなりかけていた車で、雨の中、高速道路を走っていたときだった。
確か、高速からサービスエリアに入るときだったと思う。
轍の溝にタイヤがはまって、浮いたような感じになり、ハンドルが効かなくなった。
ブレーキを踏んだが、車がコントロールできない。
だめだ、側壁にぶつかる、と思った。
死が頭をよぎった。
しかし、どうにか減速でき、車は再びコントロールを取り戻した。
「生かされた」と思った。


たぶん、そのときは死すべきときではなかったのだろう。
だから、生かされたのだろう。
だから、むろんその逆もあるのだろう。
死すべきときがくれば、死なねばならないのだろう。
死なねばならなくなったら、それが死すべきときなのだろう。
それがいつなのかは、神のみが知っている。
そのときまで生きるという、ただそれだけのことだ。

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神と存在物について考える

小説に出てくる人物たちは、架空のものである。
それらは作家の頭の中に存在するだけなのである。
にもかかわらず、小説を読むと、それらが実際に存在するかのように思えてくる。
そして、それらになりきって、喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだりするのである。


この世に存在するものも、そういうものではないだろうか。
つまり、この世は神が書いている小説なのである。
だから、たとえ何が起ころうとも、それを神の書いた筋書きと思ってそれに従うしかないのである。

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神と死について考える

存在そのものである神は、有ること以外できない。
すなわち、存在そのものである神は、無になることはできない。
全知全能であるはずの神ができないこと、それは無になることであるのだった。
そこで、神は、人間という形を取って、擬似的に無になる経験をするという方法を考えたのではないだろうか。
それがすなわち、死ということであった。
神は、人間を通して、無になるということを、仮想的に経験している、ということなのではないだろうか。

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