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2017年7月31日 (月)

後になってわかること

妻はとにかくイベント好きで、どこかに出かけるのが好きで、USJだとかミスドキッチンだとかキッザニアだとか、いろんなイベントに応募して当選しては子供を連れて行っていた。勿論、私も行けるときには一緒に行った。

私はどちらかというと、そんなものどうでもいいじゃないかと思うようなタイプで、遠出は疲れるし、子供なんて日常の遊びで十分満足してるじゃないかと思っていた。

だけど、後になって考えてみると、やっぱりそういうイベントがいい思い出になっているんだな、と。
日常ももちろん大事でかけがえのない時間なのだけれども、旅行とかイベントなどは、その時のその場所の思い出と一緒に焼き付くものだから、格別なものなのだ。

私はイベント好きで遠出好きな妻を苦々しく思っていたが、後で振り返ってみると、やっぱりちゃんと意味があったんだね。その時にはわからないけど、後になってその意味がわかること。そういうことってあるんだ。

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新聞記事の切り抜き(矢作直樹さん)

https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20130214-OYTEW51881/

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雑感

いつ、どんな風に死ぬかなんてことは、誰にもわからない。
病気で死ななくても、ミサイルが落ちてきてみんなで一斉に死ぬことになるかもしれない。
だから、今のこの一瞬一瞬を悔いなく生きよう。
漠然とした未来を信じるのではなく、刹那刹那を、自分の好きなことをして、自分が納得するように生きようと思う。

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何とでも、言わば言え。
好きなように言ったらいいさ。
ただ、僕は精神的なものに価値を置いた生き方をしたい。
ただそれだけの話さ。

******************************

自分が自分らしく居られる時間を大切にすべきなんだ。
世間がこうしているからといって、それと同じようなことをしてどうする。
それじゃ自分じゃないじゃないか。
自分が自分じゃないものになったところで、生き生きとできるはずもないだろう。
ふん、馬鹿馬鹿しい。

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今日の食事

7月31日。今日の食事。
朝抜き。
昼、2時30分ごろ、野菜サンド一つ。
夕、4時30分頃、手打ちそば「峠」にて、温かい山かけそば950円。
その後、家に帰って家庭菜園のミニトマトとトマトを少々いただく。
夜、ゆで卵2つ。そしたらぶりがついて、昨日残した鶏もも肉と、冷凍ご飯を解凍して食べた。
その後、白玉あんみつ270円をいただいた。
今日もおいしく、たくさんいただいた。
ご飯がおいしい。とてもいいことだ。

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木に縁りて魚を求む

真宗やカトリックが占いに頼るのを厳しく戒めるのは、占いというものがあくまで「現世利益」を求めるものだからである。
つまり、それが「小我」=エゴの欲を満たすためのものであり、神仏のメッセージに心を閉ざしてしまうことにつながりかねないからこそ、本当の宗教は占いを戒めるのだろう。
占いとは、所詮「形而下」のものにすぎないのである。

だから私が手相見に救いの言葉を求めてしまったということ自体が、そもそもの間違いなのである。
そこから形而上的な言葉は絶対に出てこない。
まさに、「木に縁りて魚を求む」ということなのだった。
形而下=現世利益のことしかわからない人に、形而上的な言葉を求めてしまった愚かさを、まず反省しよう。
そしてこれが笑い話になるように。

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今(昨日)でよかった

これからいろいろな意味で忙しくなるだろう。
入院やオペレーションを経て、文字通り新しい自分になる。
そのときにはもう、あの手相観の言った事なんて、忘れているだろう。どこかの彼方へ飛んで行ってしまっているだろう。あの手相観に見てもらったのが今のこのときで良かった。
わずか昨日の事なのに、あの嫌な感じを、もうだいぶ忘れかけているじゃないか。
だったら大丈夫だ。

これからまた新しい人たちとの出会いがある。
嫌だったことなんか忘れて、新しくまた歩き始めればいい。

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生きている証

腹が立つのは生きている証、性欲があるのも生きている証。
と、今日も唱えてみる。

さすれば、ふだんは邪魔なもの、鬱陶しいものと思っているものも、限りなく愛おしく思えて来るかも。

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すべては仕組まれていたこと

振り返れば、ひょんなきっかけから妻と出会ったことも、なぜか交際が続いて結婚まで至ったことも、すべては(神によって)仕組まれていたことなんだな、と思う。それをさらに遡れば、音楽をやるために神戸に出てなければ妻との出会いもなかったろうし、そのきっかけとなった出来事=ある人に対する怒りが原因でパニック障害を発症したこと(これも当時の自分にとっては苦しくつらいことだった)もなければ、ありえなかったわけだ。

そう思ってみると、当時は何が何だかわからなかったことも、後になって俯瞰してみれば、実に、すべてが精妙に、神によって仕組まれていたのだとしか思えなくなる。さすれば、その結晶としての今のこの現実が、限りなくいとおしいものに思えてくるのである。そして思わず口を突いて出てくるのは「ありがとう」。

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愛をもって見ること

大切なのは、愛をもって見ること。
怒りも、相手に攻撃的になることも、つまるところ、「小我」を守りたい、「小我」を傷つけられたくないという防衛本能から来ているのだ。
愛をもって相手を見ることができれば、自分自身が愛になれば、怒りや攻撃心も消えてゆくのではないか。

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僕の苦しみ

僕の苦しみは、人を見るときに、いちいち「評価」してしまうということだ。
子供に対する愛は無条件だから、子供に対してはそれを感じないのだが、たとえば妻に対して。
彼女はこういう傾向がある。ここが欠点だ。こうすればもっとよくなるのに。とか。
妻に対してだけではない。仕事関係の人に対してもだ。
あの人はああだ。この人はこうだ。
いちいち評価してしまう。そしてそれは「人を裁く」ことにつながってしまう。

それがつらい。職業病なのだろうか。仕事を変えた方がいいのだろうか。

人を評価し裁く人は、必ずその返す刀で自分自身をも評価し裁いているのだ。

人を愛するというのは、その人のいいところも悪いところも、丸ごと受け入れることである。

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小人閑居して

「小人閑居して不善を為す」という言葉がある。
この不善の本当の意味は、主君に対する謀反のことだそうだ。
だが、一般的には、「つまらない人物は暇でいるとろくなことをしない」ぐらいの意味で捉えられている。
その言葉の意味を、つくづくと実感する今日この頃。

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ある対話

「いいかい、この世の中、すべてが自分なんだ。たとえ腹の立つやつがいたとしても。そう思って世の中を見てごらんよ。すべてが可笑しく、そしていとおしく思えてこないかい。」

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7月31日

昨夜は夜12時を回ってから床に就いた。
けれども今朝は朝7時にぱっちりと目が覚めた。
ありがたいこと。

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怒りとは

怒りとは、もともと自分の中に怒りのエネルギーがあって、それが外部に誘発されたに過ぎないと何かで読んだことがある。
そう考えれば、相手が自分を怒らせたとか自分の怒りはそいつのせいだとかいって相手を恨んだりすることもなくなる。

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生きている証

生きているということ。
楽しいことも悲しいことも、腹立たしいこともある。
それらすべてが、生きている証。

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ある対話

A「いやあ、昨日のあの手相見には、プライドをずたずたにされたよ。」

B「おや、そうかい。まだまだ君の自我は元気だってことだな。死んだら小さな自我なんてなくなるから、プライドをずたずたにされたなんてことで怒ったり苦しんだりすることなんかなくなるよ。どうだい、死ぬのが怖くなくなっただろう。」

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まあ

まあ、世の中腹の立つこともあるさ。思い通りにならないこともあるさ。
そういう出来事のうちの一つにすぎない。
そう笑っていられたらいいね。

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精神的な境地

例えば、小学校の算数しか知らない人が、高校数学を教えることができないように、精神的に自分よりも低い境地にいる人が、自分に対してなにかアドバイスめいたことをしたところで、それは的外れにしかならない。
あの手相見がほとんどゼニカネのことしか言わなかったというのも、そういうことなんだろう。
精神的な人生を送ってこなかった人がどうして精神的なアドバイスができるだろうか。
ああ、私は加減乗除しかできない小学生に金を払って、高等数学を教えてもらうことを期待していたんだ。
全く笑ってしまう。

自分よりも上の境地にいる人だけが、自分を導くことができる。

人は、パンのみにて生くるにあらず。

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頼りになるのはただ自分だけ

結局思ったのは、つらいときに安易に他人に(しかも赤の他人に)救いを求めちゃいけないということなんだ。
苦しみを、運命を引き受けていくのはただ自分しかいない。

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「異なり」「孤となり」の世

誰にもわかってもらえないつらさ。
けれどもそれは仕方ないことなのだ。
この世は「異なり」であり「孤となり」の世界なのだから。
でも、神は、すべてをわかっている。

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2017年7月30日 (日)

反面教師

今日の手相観は、私にとっての反面教師として私の前に現れたのかもしれない。
今はそう思っている。
つまり、それはこういうことだ。
私自身、落ち込んだ人に対して、傷口に塩を塗るようなことを言ってしまったことがあったかもしれないし、今後も言ってしまう恐れがあった。特に、妻に対して。

だが、たとえそれが事実を突いていたとしても、「どうだ、自分はこれだけ見抜いてるんだぞ、洞察してるんだぞ」という単なる自己満足であり、それを言ったところで何の解決にもならないばかりか、かえって相手を傷つけるだけだということが、実感としてわかったということである。自分がそういう立場に置かれてみなければ、わからなかったのかもしれない。

いや、本当に、妻に対して「貴女は人生をなめて生きてきたんだろう」とか「いい加減に生きてきたんだろう」とか、そういうことを、本当に言ってしまう恐れがあったのだ。

自分が実際にそれを言われてみていかに傷つくか、それで向上心を持つどころか言われたことで意欲を失ってしまうし、相手への信頼感もなくしてしまうということが、自分がそれを言われる立場に立ってみて、本当によくわかったのだ。

だから私は、今までよりももっと優しくなろう、人の心に対して敏感であろうと思った。

それがわかっただけでも、今日の収穫だったのではないだろうか。

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でも

でも、その手相観のおかげで、いつも身近にいてくれる妻や子供などの家族がどれほど貴重な存在なのか、手相見なんかの言葉よりも妻や子供の言葉の方がどれほどありがたいものなのかということを、実感することができた。

赤の他人なんかに、アドバイスの言葉を求めちゃだめなんだな。
それがわかっただけでもよかった。

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ある手相観

わらをもつかむ気持ちで、励まされたいと思って、手相観(てそうみ)に鑑定を依頼した。
なぜその人を選んだかというと、その手相観のHPにご自身の経験として「初めて手相を観てもらった時にはいいことを言われず腹が立った」ということ、そしてご自身のモットーとして「手相鑑定によって人を勇気づけ元気づけ笑顔になれる鑑定をすること」と書いてあったからだ。

だが、期待は見事に裏切られた。

宣伝文句と実際がここまで違うのだろうかと思うぐらい、否定された。
「甘えてる」「苦労知らず」「逃げてきた」「他の社会人の人はみんな○○してる」とか。
他の人は関係ないんじゃない?
それに、苦労なら人一倍してきたつもりだ。

苦労というのは単に経済的な苦労を言うのではないだろう。
人にはそれぞれ苦労の形が違うものだ。
経済的に恵まれているなら、別の形で苦労しているのだ。
あまりに平面的な認識だと思う。

悔しくて仕方なかった。

安直に、占いに救いを求めたのを神様が咎めたのだろうか。
曾野綾子さんも、占いに頼ってはいけないと言っているし、真宗でも、占いに頼ろうとするのは人の心の弱さによるのだと戒めている。

もう二度と観てもらうことはないだろう。

よかったことと言えば。

少なくともあと30年は生きるだろうと言われたこと。
その一点において、勇気づけられ元気づけられ、笑顔になることができた。
もしかするとそのためだけにあの90分間はあったのだろうか。
そう考えると納得もできるのだけれど。

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今日は

今日の昼は、何を食べようかと思って外に出た。
近所のベンガルカレー屋は日曜ということもあり、行列。
あきらめて、あてどなく歩いていたら、誰かが「カツカレーが…」と喋っていて、それを聞いたとたんにカツカレーが食べたくなった。
デパ地下でロースカツを一枚買い、スーパーでご飯とボンカレーを買って、カツカレーを作って食べた。
おいしかった。
食欲が盛り返してきてうれしい。
今まで食欲がなかったのは精神的な要因だったのだろう。
おいしいものを食べて、おいしいと思えるのはとてもいいことだ。

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私は女を見る目は全然ないが、母はバイトでたくさんの女子に接しているから、見る目がある。
それで、結婚前に母に、当時交際中の妻と会ってもらった。
実際に会ってみた母は「いい子だね」と言った。

子供が生まれてから、とりわけ下の子が生まれてからは、妻は結婚前とは別人のようだった。

妻はなぜかいつもイライラしていて、会話もほとんどないし、私に何かを言うときにはいつも偉そうに命令口調。捜し物が見つからなかったりするといつも私のせいにする。それが悔しくて悔しくて、でも言い返すとけんかになるから、ぐっと押さえ込んで。

一体何が不満なんだろう? 妻は専業主婦であるが、皿洗い、ゴミ出し、子供の風呂入れ、気付いたときには洗濯物の取り込みも、など、家事も相当部分私がやっているのに。

ママ友とか、外の人に対しては必要以上にヘラヘラしているのに、家に帰るとそのストレスをぶつけるように、ぶすっとして。

私はそれがとてもつらくて、向こうの世界にいる母に思わず祈った。
「あなたが太鼓判を押した妻は、今やこんなんですよ。僕はどうしたらいいのでしょう?」と。
その祈りが聞き届けられた答えが、これだったのだろうか。
こんな病気にでもならなければ、妻は私の有難みなどわからなかったのだろう。

人には二通りあると思う。
こちらがへりくだると、自身もへりくだる人。反対に、こちらがへりくだると、勘違いして偉そうに増長する人と。

当たり前の存在だから、ついそこにいるのが当たり前と思って感謝を忘れる。
私とてそれは同じだろう。だから常に自分自身に向かって問い直さねばならないのだ。

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検診を受けても、「血圧が高い」「コレステロールが高い」と言われ、「血圧が高いと長生きできないよ」と脅され血圧を下げる薬を飲むことを強烈に勧められたし、コレステロールは実際にスタチンを飲んだこともあった。それで私自身も、自分は脳卒中かなんかで死ぬんだろうと漠然と思わされていた節があった。母は低体温低血圧で、がんになりやすいタイプ、しかし私は高血圧高体温。気をつけるべきは、「死の三重奏」の方だとばかり思っていた。だが、思わぬところに伏兵がいたとはね……。

このたびかかったお医者さんが、内視鏡を強烈にプッシュしてくれてよかった。それは、本当に、天の配剤ということなんだろう。

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2017年7月29日 (土)

書店で平積みにされた『どんな時でも人は笑顔になれる』(渡辺和子著)を立ち読みした。
すごくいいことが書かれていた。
「苦歴」という言葉。
「学歴」「職歴」というものがあるが、「苦歴」=苦労の歴史こそが、その人の本当の財産であるというようなことが書かれていた。
その通りだと思う。
苦労、苦難が人を作っていく。
苦労をしたことのない人は薄っぺらだと思う。
現に、私の中学校の担任で、75歳になった今も元気で、今年も講師をお願いしますと頼まれた、と自慢げに同窓会で語る人がいる。
病気もしたことがないのだろう。
そういう人に、人の苦しみがわかるのだろうか、と思う。
担任時代の彼の口癖は、「自分にも他人にも、厳しく、冷たく」であった。
「厳しい」というのと「冷たい」というのとは違うはずだ。
ワインが時を経て熟成するように、人間も時を経れば苦労もたくさんして熟成し、円熟味が出てくるはずだと思うが。
彼にはそれをあまり感じない。35年前と全然変わっていないと思う。
まあそういう人もいるが、そういう人にはなりたくない。
話がそれた。
苦労こそが人を作るということだ。
「苦歴」とは何といい言葉ではないか。

もう一つ。
人間は自分の欲しいものを与えてほしいと祈るが、神はその人にとって本当に必要なものを与えられる、という言葉。
これなどは、仏教で言う小我と大我という考えに相通ずると思う。
そして、なぜこんな苦しみを与えられるのかと思ったとしても、後になってそのことの本当の意味がわかる、というようなことも書かれていた。

だから、神は、今、私に本当に必要なものを与えられたのだろう。

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ほんとうなら、私なんぞは家庭を持つに不向きな人間だったのかもしれない。
そんな私のところに嫁いできて、子供を二人産み、私に世間並みの幸せを味わわせてくれた妻には、そのことだけでも感謝しなくてはならないのだろうと思う。

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これでいいのだ

「これでいいのだ」というのは名言である。
人生、これでいいのだ、これでよかったのだ、と、深く納得してあの世に旅立てたら最高だと思う。

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別れ際

今朝、妻と子供が妻の実家に旅立って行った。
別れ際というのが一番つらいものだ。
心が引き裂かれるように感じる。
だが、一旦別れてしまえば、そのときのつらさもどこかへ行ってしまい、かえって心が自由になったようにすら感じる。
人が死ぬ時も、案外そういうものなのではないだろうか。

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子供との時間

私のような者のところに、かわいい子供が二人も生まれて来てくれた。
自分はこんなに幸せでいいのだろうか、こんな幸せがいつまで続くのだろうかという、漠然とした不安のようなものもあった。
だからこそ、子供と全力で向き合い、手抜きはしなかった。
与えられるものすべてを与えようと思ってやってきた。
出来る限り多くの時間を子供のために使い、子供と一緒に過ごしてきた。
それだけは、本当に良かったと思う。
ありがとう。

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ドラマよりもドラマティックな人生

ドラマを見ても、所詮作り事じゃないかと思えてしまう今日この頃。
平凡で絵にかいたような幸せな家庭、みたいなものに憧れた。
でもそれが「良い」とどうして言えるだろうか。
あまりにドラマティックな人生。
誰のせいでもない、多分、自分自身がシナリオを書いて、生まれてきたのだろう。
だとしたら、それを楽しむしかないじゃないか。

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虫の知らせ

もう半年以上ぐらい、早朝覚醒が続いていた。
まだ暗いうちに、はっと目が覚める。
こういうのも、虫の知らせだったのかもしれない。
いや、慣用的には虫の知らせと言うが、正確には、向こう側からの知らせなのだと思う。
向こう側にいる母が、何とかして私に何らかのメッセージを送ろうとしてくれていたのかもしれない。

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2017年7月27日 (木)

最高の死に方とは

軍人は戦地で、ミュージシャンならステージ上で死ぬのが最高の死に方だろう。

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2017年7月26日 (水)

病と御縁

病を得たがゆえにつながる御縁もあるのだろう。
今まで出会えなかった人に出会えた御縁。
そう感じた。

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ある日の光景

病院のインフォメーションで、やたらと偉そうにしている人がいた。
歳は60~65歳ぐらいだろうか。
一番厄介な世代だな(笑)。
そのおっさんが、東京弁で怒鳴っていた。
どうやったらあんだけ偉そうにできるんだろう。
世の中にはいろんな人がいるもんだな。
ああ、みっともない。

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人間本来無一物

人間本来無一物。
生まれたときには何もなかった。
物や金は言うまでもない。
配偶者や子供などの家族も、自分のものだと今は思っているが、もともとそんなものはなかった。
本来、何も持っていなかったのだ。
ただ、自分の前を通り過ぎるだけ。

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2017年7月25日 (火)

今日の食事

ようやく食欲が戻ってきた。
朝はデニッシュパン2枚、昼はベンガル地方のカレーを出すお店で、半々(ダル&チキン)の大盛りを。夜は、出雲そばの大黒屋で、温かい山かけの大盛りを食べた後、家に帰って桃を一玉。

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早世する人

いい人ほど、あまりに早く向こう側に逝ってしまう。
この世が修行の場であるとするならば、そういう人は早めに課程を終えて、いわば飛び級で卒業したということなのだろうか。
長寿の人は逆に、まだまだ卒業を許されないということなのだろうか。

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音楽家という魂

モーツァルトがあの音楽を紡ぎ出しているのではなく、神が、モーツァルトという形を取ってあの音楽を紡ぎ出しているのだろう。
同様に、小田和正があの音楽を紡ぎ出しているのではなく、神が、小田和正という形を取ってあの音楽を紡ぎ出しているのだろう。

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2017年7月24日 (月)

この世の中には

この世の中にはあまりにも美しいものがある反面、あまりにも醜悪なるものもある。
そういうものが、いやでも目に入ってきてしまう。
見てしまうと、また見てしまった、見なきゃよかったと後悔する。
美しいものだけを聴いていたいし、美しいものだけを見ていたいのだ。

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2017年7月13日 (木)

生と死と

こちら側で死ぬということは、向こう側に生まれるということなのだろう。

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メメント・モリ

メメント・モリ。=「死を思え」。
我々は、日頃、自分が死すべき存在であることを忘れて生きている。
だが、それは精神を弛緩させることにつながりかねない。
身近な人への感謝を忘れたり、不平不満がつのったり、くだらないネットサーフィンに時間を費やしてしまったり、くだらないことに一喜一憂したり、美しいものに気付かずに過ごしてしまったり…。

死を思うことこそが、かえって生を輝かせ、緊張感に満ちたものにするのではないだろうか。
それは、英霊の遺した言の葉を読めば一目瞭然にしてわかることである。

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2017年7月11日 (火)

つぶやき

正直、家に帰りたくないことがある。
妻がイライラして機嫌が悪いと。
でも、子供の顔は見たい。
このディレンマ。

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感謝

結婚もできるかどうかわからなかったような自分が、40を過ぎて伴侶を得て、二人の子供にまで恵まれた。
「お父さん」と呼ばれるようになった。
そのことだけでも感謝すべき僥倖ではないだろうか。

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2017年7月10日 (月)

日々を後悔なく生きているか

人はいつか必ず死ぬ、そしてそれは今日かもしれないし明日かもしれない、ということを強烈に感じ、ならば、自分の好きなことをやろうと心に決め、神戸の音楽学校に入ることを決意したのが14年前の春だった。

もうあれは14年も前になるのか。
今の自分は、果たして後悔しない日々を送っているだろうか。
家族ができたから仕方ないかもしれないが、収入や社会的立場や人からの見た目を気にして、「常識」に流されて、自分らしくあることを後回しにしていないだろうか。今再び、そんなことを考えるのである。

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2017年7月 7日 (金)

生きるとき、死すべきとき

私は以前、死にかけたことが二度ほどある。
一度は、深夜三時頃に車を運転中、ふっと眠りに落ちた。
次の瞬間、後ろからけたたましいクラクションが鳴り、ハイビームの光がルームミラーに映った。
私はセンターラインを大きくはみ出していた車を元に戻した。
後ろを走っていた車の運転手のとっさの機転のおかげで、私は九死に一生を得たのだった。


もう一度は、タイヤの溝がなくなりかけていた車で、雨の中、高速道路を走っていたときだった。
確か、高速からサービスエリアに入るときだったと思う。
轍の溝にタイヤがはまって、浮いたような感じになり、ハンドルが効かなくなった。
ブレーキを踏んだが、車がコントロールできない。
だめだ、側壁にぶつかる、と思った。
死が頭をよぎった。
しかし、どうにか減速でき、車は再びコントロールを取り戻した。
「生かされた」と思った。


たぶん、そのときは死すべきときではなかったのだろう。
だから、生かされたのだろう。
だから、むろんその逆もあるのだろう。
死すべきときがくれば、死なねばならないのだろう。
死なねばならなくなったら、それが死すべきときなのだろう。
それがいつなのかは、神のみが知っている。
そのときまで生きるという、ただそれだけのことだ。

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神と存在物について考える

小説に出てくる人物たちは、架空のものである。
それらは作家の頭の中に存在するだけなのである。
にもかかわらず、小説を読むと、それらが実際に存在するかのように思えてくる。
そして、それらになりきって、喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだりするのである。


この世に存在するものも、そういうものではないだろうか。
つまり、この世は神が書いている小説なのである。
だから、たとえ何が起ころうとも、それを神の書いた筋書きと思ってそれに従うしかないのである。

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神と死について考える

存在そのものである神は、有ること以外できない。
すなわち、存在そのものである神は、無になることはできない。
全知全能であるはずの神ができないこと、それは無になることであるのだった。
そこで、神は、人間という形を取って、擬似的に無になる経験をするという方法を考えたのではないだろうか。
それがすなわち、死ということであった。
神は、人間を通して、無になるということを、仮想的に経験している、ということなのではないだろうか。

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