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2017年11月29日 (水)

「私」は肉体ではない

「私」は肉体ではない。
例えば、心臓が動くことを自分の意思で制御することができない。
ホメオスタシスと言われる、恒常性維持(例えば体温などを一定に保つこと)も、「私」の意思ではない。
それは、肉体にプログラムされたことである。
思春期になって、自分の体が勝手に変化し、それに戸惑うことも、「私」が肉体ではない確実な証拠である。
「私」が好むと好まざるとに関わらず、体の方が勝手に変化してしまう。
これは、肉体がそのように(何ものかによって!)プログラムされているからに他ならない。
病や老化もそのようなものであろう。
体がいくら変化しようとも、「私」は不変なのである。

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2017年11月28日 (火)

一人では味わえないこと

独身時代は小さい子供が嫌いだったのに、自分の子供が生まれてからは、子供が好きになり、子供と関わるのが楽しいと思うようになった。

また、演奏の依頼を受けて、自分の演奏にみんなが喜んでくれたり、「感動した」と言ってくれたりすると、ああ、自分は人に喜んでもらうことが好きだったんだな、これからもっともっと人を喜ばせたり、感動させたりしたいな、と思う。

こういうのは、一人で生きていたのでは絶対にわからない。他人との関わりがあって初めて味わえることだ。

絶対精神は、こういうことを経験するために世界を作ったのだろうな、と思うのだ。

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美しいものだけを

美しいものだけを見ていたい。
美しいものだけに接していたい。
だが、この情報あふれる世の中ではそれも難しいのか。
スーダラ節にある。「わかっちゃいるけどやめられない」と。
これは浄土真宗の心を表している、と、真宗の本にあった。
わかっちゃいるけど見てしまう、インターネット。
美しいものだけを見ていたいのに。

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ベルソムラ服用

昨夜一時頃に目が覚めた。
今日は出勤ではないので、実験のつもりで、ベルソムラを飲んでみた。
レンドルミンの場合、飲んでからすぐにストンと眠りに落ちるのだが、ベルソムラはそういう感じではない。
入眠と覚醒の間ぐらいの感じがずいぶん長く続くという感じだ。
中途覚醒から朝まで何度か夢を見たので、眠れていたことは確かなんだろうが、あまり熟睡感がない。
そして、目覚めもなんとなくスッキリとしなくて、まだ眠い感じ。
レンドルミンの場合はむしろ目覚めがスッキリしている感じなのだが。
ベルソムラを飲むなら、夜寝る前に飲んでおくのがよいのだろう。
自分の場合はレンドルミンの方が合っているのかなとも思ったが、もう一回ぐらいは実験してもいいのかな。

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2017年11月27日 (月)

オトナ高校第6話

最初は眉をひそめながらもいつの間にかハマってしまった「オトナ高校」。
第6話も、大いに笑い、そして泣いた。
前のエントリで、英人と昔の私は似ていると書いたが、一つだけ違うところがある。
英人はうぬぼれが強いが、私はむしろ、自分に対するコンプレックスが強く、自分のことが嫌いだった、というところがある。
そこが大いに違うところだ。

さて、話の方だが。サショーやヤルデンテに新たな展開。
でも英人、スペアさんになぜそこまでこだわる。
英人の趣味がわからないなぁ~。
私ならさくらちゃんだろう。

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2017年11月22日 (水)

よい演奏ができるとき

よい演奏ができるときというのは、「自分」が無になっているときだ。
幸いなことに、私はそういう感覚を先日味わった。

演奏者はややもすれば「自分」をアピールしなければと思うものだが、自我の殻が固ければ、いい演奏はできず、かえって耳障りなだけなのではないだろうか。

本当に人の心を動かす演奏というのは、自我がなくなったときにできるものだと思う。
自分をアピールしたいとか、間違ったらどうしようとか、そういう雑念が消え、ただ聴衆を喜ばせたいという気持ちだけになったとき、自我が消える。
自我がなくなったそこに、天から何ものかが降りてくるのだ。
そしてこの私の肉体は、その何ものかにただ動かされているだけという状態になる。
そういう境地が、よい演奏の境地というものだと思う。

だから、その演奏に対してどんなに賛辞を浴びようとも、けっして傲慢になったりすることはない。
自分の力ではないのだから、ただただ、感謝しかないのだ。

そのことを教えてくれることになったすべてのいきさつと携わってくれた人たちに、感謝したい。

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生と死について

物心ついてみると、自分は生きていた。
なぜ? その理由がわからず、いつか死なねばならないことを恐れ、幼稚園で泣いていた。
そういう子供だった。

生と死とは、人間の意思の及ばない事象なのだ。
50を過ぎた今、ようやくそのことがわかってきた。
生まれさせてほしいと頼んで生まれたわけではない。(この意識としての私が。無論、違うレベルではそうではないのかもしれないが。)
生は与えられたものである。
だから、死もまた、この意識としての私がどうこうできるようなものではないのだろう。
いつ死ぬか、などということは、一方的に、向こうの世界で決められるものなのだろう。
だからこそ、昔の人は、「お迎えが来る」と言ったのだった。
そういう感覚は実に正しいものだったのだ。
生死を差配するのは、断じて人間ではない。

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2017年11月15日 (水)

豊穣だった70年代後半の歌謡曲

青春歌年鑑の78、79を聴いていると、これらの年の歌謡曲は豊穣だったなあと思う。
改めて聴いてみて思ったのは榊原郁恵の「夏のお嬢さん」や「いとしのロビンフッド様」がとてもいい歌だということだ。
この時代の歌謡曲は、ビッグバンドのアレンジとシンセサイザーなどを使ったコンボのサウンドがうまくブレンドされているなあと思う。

そして改めて思ったのは、歌詞がすごい。いろんな意味で。
「いとしのロビンフッド様」は、青いリンゴが赤くなってとか、穴を開けたとか、性的な意味に取ろうと思えば取れるのだが、それをさらっと健康的に歌っているところがすごい。榊原郁恵の「Do It Bang Bang」などはまさにソレで、「好きならいいのよ 早く野性に戻って」「あなたになら許せるの何もかも」とか、当時の私は深い意味はわからないものの、何かやらしいことを言ってるのだなと思いながら聴いていた。

西城秀樹の「ブルースカイブルー」も青春歌年鑑に収録されているのだが、こちらの歌詞もすごい。
若い男が、人妻と深い仲になってしまい、僕と一緒に生きていこうとたぶらかした。それを大人の人にとがめられ、ほほをぶたれた。その人妻は若い男から遠ざけられて今はどこにいるのか。だが、そういう過去の恋も今では思い出で、さよならを言えると。

まあ、要約すればそういうような内容の歌詞である。
こういう歌詞を、カノン進行のメジャーキーに乗せて、爽やかに、そしてドラマティックに歌う当時の歌謡曲とか、それをヒットソングにする世の中とか、当時にはそれだけの包容力というものがあったのだなあ、と思う。

ああ、いい時代だったんだなあ。
榊原郁恵の健康的なかわいさは、今YouTubeを見ても魅力的である。
当時、子供から大人の入り口に差し掛かっていた私にとって、少し年上のお姉さんであったが、心惹かれるアイドルであった。


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2017年11月13日 (月)

ソニーに物申す

ソニーがXアプリとMediaGoのサポートをやめて、MusicCenterforPCに統一するとな。
びっくりした。
今のXアプリもMediaGoも、すこぶる使い勝手がいいのに、それをあえて使えなくするとは何事ぞ。

私は国内企業を応援したくて、iPodではなくあえてウォークマンを使っているのに、この消費者無視の殿様商売的態度には裏切られた気分だし、業を煮やす。

MusicCenterforPCが、これまでのアプリ以上に使い勝手のいいものならばともかく、デザインも機能も、Xアプリの劣化版にしか思えないからだ。

いい加減にしろ、ソニー。

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2017年11月10日 (金)

占いの話

これまで占ってもらって、よく当たるなあと思ったのは、西洋占星術と算命学である。
占いが当たるかどうかというのは占者にもよるのだろうが、西洋占星術というのはほんとによく当たっていた。

まだ私が大学院にいた頃。
池袋に、いろんな占術が集まるブースというかコーナーがあった。
西洋占星術で、生年月日とだいたいの時刻を書いて渡した。
占者はそれだけでホロスコープを作成し、開口一番、「あなたは、何か芸術に関するセンスがありますね」というようなことを言った。

私は自分の来歴も何も、一言も喋っていない。ただ、生年月日と時刻だけだ。そしてその頃の私はいかにも風采の上がらないもっさりした石部金吉風の学生であった。
これはすごいなと思った。やはりホロスコープにそういうものが客観的に出ているから、わかることなのだろう。

そして、西洋占星術で出ていたのは、「若い頃は不遇だが、晩年運が非常にいい。あなたが本当に花開くのは、中年以降だ」と。そのこともホロスコープに現れていたのだろう。私はそのことばを信じてこれからを生きていきたい。

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2017年11月 9日 (木)

この世は宇宙の見ている夢である

どうもこの世は宇宙の見ている夢であるらしい。
故池田晶子氏もそのように書いていたし、さとうみつろう氏や雲黒斎氏の本を読んでも、その感を強くする。

実際、私自身、幼稚園の頃までは、そういう感覚があったのである。
今見ている「これ」は、もしかしたら夢ではないのか。
夢であるなら、目が覚めるとどうなるのか。
そんな、存在論的な疑問というのか、不安というのか、そういうものをかなりリアルに感じて、我知らず幼稚園で泣き出して、友達を心配させることもあった。
だが、そんな存在論的な疑問を言ったところで、だれも理解してくれるわけもないと思って、そのことを話さなかった。

それから、小学校に上がり、「生きていくこと」「友達を出し抜くこと」「ライバルに勝つこと」を強制されるようになって、そういう存在論的な疑問は自分の中から消えていった。

だが、大人になって、いま再び、かつてあったそういう気持ちを思い出すことになった。
それは、池田晶子氏の著作や、みつろう氏や雲さんの本などによって触発されるところがあったのではないかと思う。

「この世は宇宙の見ている夢である」。この感覚を大事にしたい。
さすれば、現世的な、いろいろな苦悩も相対化するように思うからである。

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ゼニ・カネにこだわらないこと

『悪魔とのおしゃべり』を読んでなるほどと思ったのは、金持ちになりたいと思えば、金持ちになりたいと思わない方がいいという内容だ。筆者によれば、金持ちになりたいと願うということは、今金持ちではないという現実がすでにかなっているからだということなのだが、渇望すればするほど逃げていくというのは確かにあると思う。

私は、金持ちになりたいと思ったことはない。
要するに、金に対する執着がない。金をそれほどの価値と思っていない。
僭越ながら故池田晶子氏の言葉を借りれば、「精神性以外のものを価値と思ったことがない」からである。
なるほどだから、今まで大して金に困らずにやってこれたのか。
いやそれは、そもそもそういう運のもとに生まれているからなのか。
とにかく、金に執着し、二言目にはすぐに金の話をする人を卑しいと思うのである。

だが、私はいい女性に出会いたいとは希った。
しかし、渇望すればするほど、そういう出会いはなかったという思いがある。
これは、がっついているのが表面に現れてしまったからという物理的な理由もあるのだろうが、やはり渇望するのは良くないんだろうと。

閑話休題。
だから、私のことをハングリー精神がないと罵倒した手相見がいたが、簡単な話、そんなものはない方がいいのだ。
そんなものはない方が、人間としての品格も保っていられるのだ。
そんなものがなくても、安心して暮らしていられる運命を、神が与えてくださったのである。
そんなこともわからぬ、なんという即物的で哀れな手相見であろうか。

だが、その手相見でさえ、私の中にある幻想である、とみつろう氏なら言うだろう。
そして、その通りなのかもしれない。
あるいは、自分というものが二つに分離し、手相を見てもらう私と、手相を見る私とに分かれた。
そう考えれば、もともとはその手相見でさえ自分であると言えるかもしれない。
だから、怒る必要はないのだ。
彼女は、何らかの必要があって、あの時、私の前に現れたのであろう。
だから、そのことに感謝するほかはないのだ。

と、みつろう氏の本を読んで思った。

いずれにせよ、現世的な成功に、私は何の興味もない。
またまた僭越にも故池田晶子氏の言葉を借りれば、それが私の魂、魂の私であるとしか、言いようがないのである。

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読書『悪魔とのおしゃべり』

さとうみつろう『悪魔とのおしゃべり』を買って読んだ。
「正しさなんてただの多数決」という触れ込みや、タイトルがあまりに衝撃的過ぎて、買うことをためらったが、読んでみて本当によかったと思う。
あまりにくだけすぎた会話体は自分にとって決して読みやすいとは言えなかったが、摩訶不思議な宇宙の構造、この存在の構造というものを、筆者なりのやり方で語っているのではないだろうか。
存在論、認識論、最新の理論物理学、悪人正機説、浄土論、絶対他力思想、唯識思想、キリスト教、等々、さまざまな知見がちりばめられていて、ああ、なるほど、それはそういうことだったのか!と、目からうろこが落ちるような気持を味わった。筆者はよく勉強してよく考えた人なのだろうと感じた。
必ずしもすべてが理解できるというわけではないが、なぜか勇気づけられ、力づけられる本だった。
私は「スピリチュアル」と言いながら現世利益を説く本が大嫌いなのだが、この本はその手の本ではなかったように思う。
『神様とのおしゃべり』よりもわかりやすく、共感できた。
意外や意外、もしかすると、私の座右の書となるかもしれない。
ありがとう!

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2017年11月 7日 (火)

たくさん失敗させてやりたい

人生には、うまくいくことよりも、失敗の方が多い。
私は、なるべく失敗を避けるようにして育ってきた。
たとえば、小学生の時でも、100点でなければ満足できず、90点でも地団駄踏んで悔しがった。
担任教師はそれをほめた。
そして、「いまだにテストで無傷(100点を取り続けている)の者がいる」とみんなの前で語って、競わせた。
別に今更その教師を責めるつもりはないが、愚策だと思う。

どんな人間だって完璧はあり得ないのだ。
失敗をしないことが大事なのではなく、失敗したときにどうやって立ち上がるか、の方が、断然大事なのである。
失敗しないことにばかり気を使っていると、失敗を恐れるような小さい人間になってしまうではないか。

私は、自分の経験をもとに、子供には、今のうちから大いに失敗の経験をしてもらいたいと思う。
失敗こそが人を成長させるし、人生においては、失敗したときにどうするかの方が、ずっと大事だからである。


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2017年11月 3日 (金)

テレ朝系『オトナ高校』

子供も見ている時間帯の番宣でセ●クスと叫ぶのはやめてほしい、ほんとうに。
と思いつつ、GYAOで、『オトナ高校』第3回を見た。
英人の姿をみて、かつての自分を見るようで、身につまされた。
やたらとプライドが高く、何でも頭の中で理屈で考えてしまう。
私もそうだった。未だにそういうところは残っているかもしれない。
偏差値受験エリートの悲劇である。
英人の姿は30歳のころの私とそっくりだと思うと、苦笑してしまう。

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