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2017年11月 9日 (木)

ゼニ・カネにこだわらないこと

『悪魔とのおしゃべり』を読んでなるほどと思ったのは、金持ちになりたいと思えば、金持ちになりたいと思わない方がいいという内容だ。筆者によれば、金持ちになりたいと願うということは、今金持ちではないという現実がすでにかなっているからだということなのだが、渇望すればするほど逃げていくというのは確かにあると思う。

私は、金持ちになりたいと思ったことはない。
要するに、金に対する執着がない。金をそれほどの価値と思っていない。
僭越ながら故池田晶子氏の言葉を借りれば、「精神性以外のものを価値と思ったことがない」からである。
なるほどだから、今まで大して金に困らずにやってこれたのか。
いやそれは、そもそもそういう運のもとに生まれているからなのか。
とにかく、金に執着し、二言目にはすぐに金の話をする人を卑しいと思うのである。

だが、私はいい女性に出会いたいとは希った。
しかし、渇望すればするほど、そういう出会いはなかったという思いがある。
これは、がっついているのが表面に現れてしまったからという物理的な理由もあるのだろうが、やはり渇望するのは良くないんだろうと。

閑話休題。
だから、私のことをハングリー精神がないと罵倒した手相見がいたが、簡単な話、そんなものはない方がいいのだ。
そんなものはない方が、人間としての品格も保っていられるのだ。
そんなものがなくても、安心して暮らしていられる運命を、神が与えてくださったのである。
そんなこともわからぬ、なんという即物的で哀れな手相見であろうか。

だが、その手相見でさえ、私の中にある幻想である、とみつろう氏なら言うだろう。
そして、その通りなのかもしれない。
あるいは、自分というものが二つに分離し、手相を見てもらう私と、手相を見る私とに分かれた。
そう考えれば、もともとはその手相見でさえ自分であると言えるかもしれない。
だから、怒る必要はないのだ。
彼女は、何らかの必要があって、あの時、私の前に現れたのであろう。
だから、そのことに感謝するほかはないのだ。

と、みつろう氏の本を読んで思った。

いずれにせよ、現世的な成功に、私は何の興味もない。
またまた僭越にも故池田晶子氏の言葉を借りれば、それが私の魂、魂の私であるとしか、言いようがないのである。

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