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2018年10月29日 (月)

株はばくちであるということについて

株式投資を始めたのが2015年の1月。アベノミクスに押され、父が100万ぐらいからやってみたらいいんじゃないかと言ったことも後押しとなって、始めてから3年と9カ月。

今思うことは、やっぱり株なんてものはばくちであって、カタギの人間のやるもんじゃないということだ。
株は投資であってばくちではないという人もいるだろうし、私も最初は株入門の本を読んでそう思っていた。
だが、3年9ヶ月実際にやってみた結論は、やっぱり株はばくちであるということだった。

今日買った株が上がるか下がるかは誰もわからない。分からないところに賭けるのだから、ばくちというほかはない。それに、誰かがもうかった陰で必ず誰かが損をしている。かけた金が勝手に増えたり減ったりする。全額回収できる保証はない。まったくばくちではないか。

まあ、そういうことが体験を通じて分かっただけでもよかった。体験しなければ分からなかっただろうに。

こういうのは、上手な人もいれば下手な人もいる。向いている人もいれば不向きな人もいる。私はいずれも後者の方だったということだ。

負けているのは保有銘柄の半分だけで、通算では勝っているじゃないか、という見方も、強気で株に向いている人ならするだろう。しかし、買った株が買った途端に下がり、売った途端に上がるというのは、やっぱり株なんてやめておけという天の声のような気がしてならない。

株価がいちいち気になって、日常生活の本当に美しいものを見落としたり、楽しい事を味わえなかったりするというのは、本末転倒である。たかがゼニカネではないかという観点は持っておきたい。

そして、私は決して社会主義者ではないが、金銭は勤労の対価として頂戴できるものだというエートスは歴然として自分の中にあり、株がたとえ投資であったとしても、それにより得られる金はあぶく銭ではないか、という思いもあるのである。

やっぱりこういうのは、お金が余ってしょうがない人、百万二百万損しようが平気な人がやるべきものなんだろうと思う。

私のように、一円一銭も大事にしたいというような人は、やっぱり向いてないのであろう。(父のように)お金をおもちゃのように扱っても平気でいられる人が、向いているのだろう。

お金に執着することは、人生の苦しみを増やし、人生を貧しいものにする。わざわざお金を払ってそんなことをする必要はない。それがわかっただけでも、やってみた意味はあったのだろう。

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