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2018年11月 5日 (月)

山際淳司著『Give up』(飛鳥新社)を読んで

ひょんなことから、山際淳司著『Give up』という本を知ることになり、図書館で借りて読んだ。

オフコースの解散にまつわる話を書いた本だった。

一言で言えば、せつないね。

オフコースをビッグにするために、まずは小田和正を前面に出していこうというプロモーション戦略。それは、必要だったのかな、と。

私は、世間では評価が高かった「We are」「over」「I love you」は、まあ、カスみたいなもんだと思っている。とにかく陰気くさくて、くりかえして聴こうという気にはならない。当時中学生という多感な時期の感性はやはり正直だったと思っている。

むしろそれ以前の、「フェアウェイ」までのアルバムが、私は好きだ。なぜなら、純粋に音楽に対する愛が伝わってくるから。

この本の中では上野博というプロモーション担当マネージャーがクローズアップされているけれども、あの時点で、あんな売り方をすることが本当に必要だったのか。

むしろ、それまでにオフコースを知り、オフコースの音楽を愛していた私は、「心はなれて」行ったのだ。サウンドも硬くなって、女の子にキャーキャー言われるようになり、うんざりだった。

3人が加入することで、人間関係のバランスが崩れていったところは、確かにあると思う。

音楽のファンとしては、こういうことは楽屋裏のことであり、知らない方がいいこともある。しかし、もう「時効」とも言える月日が経ったのだし、知っておいても悪くはない。

ヤスさんには、オフコースにとどまっていてほしかったが、疑心が暗鬼を生じ、どうにもならないところまで行っていたのだろう。

あの時点でヤスさんは運勢的にあまり良くない時期だったのかもしれない。ならば、雌伏して機が熟するのを待つという手もあったのではないだろうか。今言っても詮無いことだが。

ただ、ヤスさんにも至らない点は確かにあったと思う。

例えば、武道館コンサートの後に予定されていた横浜球場でのコンサート。
あれが行われていたら、状況は変わっていたのではないか。
ヤスさんはミーティングで横浜球場コンサートに賛成の挙手をしたが、その数日後、「区切りをつけたい」ということで、行わないように申し入れたという。

武道館コンサートの後で、ヤスさんの乗ったハイヤーがトラックに追突されたことが、本の一番最後に書かれていたけれど、何か暗示的なものだったのではないだろうか。

何にせよ、意固地になって己を主張しすぎるのも良くないなと。

「舞台裏」が書かれた本だった。

そこで、「ゲンダイ」の記事ではあるけれども(笑)、松尾一彦氏のインタビューをもう一度。(笑)

今回登場の松尾一彦さん(59)は、日本のミュージックシーンに名を刻む伝説のグループ「オフコース」のメンバーだった。89年の東京ドームでの解散公演を最後にすっかり姿を見なくなったが、今どうしているのか――。

「解散までの10カ月間で104本のライブをやったんだけど、キツかったわ。その分、最終のライブが終わった瞬間の解放感たるや、スゴかった。ただ、その解放感がツアーが終わったからか、それともオフコースが終わるからなのか、わからないところがあったね」

 表参道駅に近いカフェで会った松尾さん、淡々と昔を振り返った。秋田県出身。もともとは「ザ・ジャネット」なるバンドのメンバー。阿久悠作詞・平尾昌晃作曲の「美しい季節」でデビューするも、パッとしなかった。

「で、東芝のレコード配送センターでバイトをしたりしてね。そんなとき、バンド仲間だった大間(ジロー)が時々ドラムを叩きに行ってたオフコースから、“松尾、ハーモニカ吹けるよな?”と声がかかったのが最初」

76年、大間、清水仁とともに、小田和正と鈴木康博の2人組だったオフコースに加わった。

「ハーモニカで先が広がるとは思ってもいなかった、ハハハ。ハーモニカ以外にもコーラス、ギター、キーボードと要するに“何でも屋”みたいな立ち位置だったね」

■「メンバーも知らない解散の真相が飛び交った」

 オフコースは「愛を止めないで」「さよなら」「YES―YES―YES」などミリオンセラーを連発。しかし、人気絶頂の89年、東京ドーム公演を最後に解散した。

「メンバーもまったく知らない“解散の真相”が世間に飛び交ってた、ハハハ。まあ、一番の理由は鈴木さんが抜けたことだね。小田さんは片腕を失って、オレらではその穴を埋められなかった。解散後、メンバーはそれぞれソロ活動を始めたけど、オレはできなかったな。オフコースではどんなミュージシャンにも負けない自信があったのに、ソロでやってくほどの自信は持てなかったんだよ」

とはいえ、オフコース時代から石川セリ、小泉今日子、岩崎宏美、稲垣潤一、とんねるず、早見優などへ楽曲提供(作曲)を行い、また、吉田拓郎、斉藤和義をはじめとしたアーティストのプロデュース業は順調だった。

「02年ごろからかなあ、ライブを再開したのは。03年にオレが作曲した『悠久の杜“My Home Town”』(歌KOKIA)がNHKの『みんなのうた』で放映されたのがきっかけで、卒業した小学校(秋田県山本郡八森町の八森小学校)の校歌の制作を頼まれたり、背中を押される出来事もあって。ステージに上がって周囲を見渡し、おカネをいただいてもいいかなって思えるようになったのも大きかった」

 東北復興支援のための独立音楽レーベル「Project Next」で小田和正作詞・作曲の「言葉にできない」を自ら歌うなど東北支援にも力を注ぎ、去年、全収録曲の作曲を手がけたアルバム「忘れ得ぬ人」をリリース。そこにはオフコースの元メンバーの鈴木康博、清水仁も参加している。

「ギャラなしで引き受けてくれた。実は4年前に出したミニアルバム『せつなくて』では小田さんにピアノで参加してもらってるんだ。いくつかのパターンの音源を送ってくれて、それでいて、ギャラを受け取ってくれない。オレが活動してなくて、カネはもらえないなんて思ってるんじゃなきゃいいんだけど、ハハハ」

 夫人との間に27歳の娘がいる。

「娘が2歳のときオフコースは解散してるし、何もない日はテレビばかり見てた。教育上、よろしくなかったね、ハハハ」

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/151023

せつないわ。

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