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2019年4月30日 (火)

平成最後に聴いた曲

平成最後に聴いた曲は、キリンジの「双子座グラフィティ」だった。

なぜかこの曲を聴きたくなって、バスの中でウォークマンで聴いていたら、思わず涙があふれてきてしまった。

すべてはこの曲から始まった、といっても過言ではないかもしれない。

この曲と出会ったのは、小・中学校の同級生だったN君と大人になってから再会したときに、N君がこのCDを聴かせてくれたからだった。

その出会いがなかったら、私は甲陽音楽学院に行ってなかったかもしれない。

神戸に行ってなかったら、また、キリンジのファンになっていなかったら、妻と出会うこともなかっただろう。

とすれば、今の家族もあり得ないだろう。今の自分はあり得ないだろう。

・・・・・・というようなことを考えると、まさに人生とは縁の糸によって織りなされたタペストリーであると言える。

その時には、それがどんな意味があるのかわからない。後になってから初めて、ああ、そうだったのか、とわかる。

縁の糸によって織りなされるタペストリーが最終的にどんな模様になっているのか、それは出来上がってからしかわからないようになっている。

人生そのものを歩んでいるときにはわからない。人生を終えて人生を俯瞰したときに初めてわかる、そういう玄妙で摩訶不思議な妙な構造を、我々は生きているのかもしれない。

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平成から令和へ

まもなく平成が終わり、令和が始まろうとしている。

この厳粛で、なおかつ華やいだ雰囲気は何だ。素晴らしいではないか。

正直、私は天皇陛下が譲位なさるご意向を表明されたとき、ええっ?!と思ったのだった。なぜなら明治以降の憲政史上前例がなく、あまり好ましからざる影響があるのではないかと思っていたからだ。保守系の有識者の中にも驚きをもって捉えていた人が多かったように思うし、陛下の”わがまま”というような捉え方をしていた人もいたような気がする。

だが、いざこのときを迎えてみると、天皇陛下がご存命のうちに代替わりが行われるというのは、案外いいのではないかと思うようになった。国を挙げての盛大な行事となり、その厳粛さと華やぎの雰囲気はオリンピックとか万博など比べるべくもない。

もちろんご譲位が政治利用されたり、二重権力となったりするような様々な懸念は払拭されなければならないが、そういった問題がクリアされるならば、譲位というのはよいのではないかと、今このときを生きていて、そう感じる。

新しい時代の始まりが天皇陛下の崩御によってであるというのは、やはり暗いものがあり、それよりは、陛下がお元気なときに、新しい時代の始まりを国民あげて言祝ぎ、新しい天皇陛下のご即位を言祝ぐというのは素晴らしいものだと思う。

このような素晴らしい雰囲気の中で始まる令和の時代が、よい時代となりますように。

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さようなら、平成

今日が平成最後の日。

自分は昭和の子だと思っていたのに、振り返ってみると2:3の割合で平成の方が長かったというのが驚きである。

昭和が終わり、平成という元号を聞いたとき、なんだかあまりぱっとしないなと思ったのを覚えている。言葉の響きもそうなのだが、「平らか」というのが、何かなじめなかった。

さておき、平成は自分の人生でもいろんなことがあった。

大学を卒業した。

結婚して子供も生まれた。祖父母や母が他界した。

大きな怪我や病気、それに伴う手術や入院も経験した。

まさに、元号とは裏腹に、自分にとっては激動の時代であった。

平成を無事全うすることができ、新しい、令和の時代をも生きることができることに感謝したいと思う。

令和はどうなるだろう。

私にとって、平和で、穏やかな時代になってほしいと思う。

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2019年4月25日 (木)

そこに意味はあるのか、ないのか

人生は苦しいことつらいこと、やるせないことが多い。

そういうとき、どうやって乗り越えるのだろうか。

諸富祥彦さんは、『悩み抜く意味』(幻冬舎新書)で、「人生の苦悩には意味があり、それは人生からの問いかけである。その意味を懸命に求めなければならない」というようなことを書いておられる(端折っているので原文のままではない。)つまり、人生にも苦悩にも意味がある、それを発見するのが人生という旅だというような見方である。

私はとても励まされたし、私の人生に対する姿勢も同じようなものだった。

しかし最近、衝撃的な別の態度に出会った。

それは、起こっていることに意味は無く、人間が勝手に意味を付与して苦しんでいるだけだ、というものであった。

だから、起きることはただ起きるだけであり、ただそれだけなんだ、というものである。

これは、「さとり」系の阿部敏郎さんなんかが書いておられることだし、仏教というのもたぶんそういう態度なのだろう。また、池田晶子さんの本を読んでも、これに近いものがあると思う。

いったいどっちなんだろう。どちらの態度を取ればいいのだろう。

たぶんこれは、どちらが「正しい」というようなものではなくて、どっちの態度を取った方が「楽に」生きられるかという問題だと思うけれども。

難しいね。

これを書くために、諸富さんの本を本棚から引っ張り出してきたら、その中に、確定申告のときに必死に探して見つからなかった生命保険控除の証明書が挟まってた。こんな大事なもの無くすはずも捨てるはずもないと思って、確定申告の前に探し回ったのに。あれから2~3か月経って、意外なところからポロッと見つかった。そういうことってあるんだね。

人生も、必死になってやっても解決しなかった問題が、ある日ポロッと、あっけなく解決されてしまう、そういうことってあると思う。

だから、苦しいことがあっても、すぐに解決しそうにない問題があったとしても、いつか何とかなるもんだという希望を持って生きていこうと思う。

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2019年4月24日 (水)

自分を許してやれない

自分を許してやれない。

ちょっとしたミスも。

ル○○アのガラスポットを棚に置こうとしたら、バランスを崩してシンクに落下。無残に割れた。まさに、一瞬の出来事だった。「あーっ!」と叫ぶことしかできなかった。悔しかった。危ないと思ったことは今までにもあったのに、なぜもっと注意できなかったのか。そんなことを考えて自分をものすごく責めた。

くだらないことをぐだぐだ考えていて、心ここにあらずの状態だったからだと思った。まだ30ぐらいの頃、車で事故したときも、10年ちょっと前に包丁で怪我したときもそうだった。くだらないことをぐだぐだ考えていて心がどこかに飛んでいたからだった。

そんなことを考えながら割れたポットを袋に入れていたら、指を切ってしまい、またそれで腹が立った。

こんなふうだ。

自分で自分を許してやれない苦しみ。この苦しみから一体どうやって抜け出したらよいのだろう。

若い頃は、それが「進歩」「向上」するための原動力になっていた。しかし、今は、そんなの苦しいだけだ。もっと楽に生きたい。

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2019年4月18日 (木)

うららかな春

天気も良く、うららかな春。

朝、川を望む公園で日なたぼっこをしながら新聞を読んだ。

自分の生まれたこの季節が一番好きな季節かもしれない。

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つまらなくなった現代文

国語の面白さに目覚めたのは高校のときだった。

それまで、特に本の虫というわけではなかった。

しかし、高校に入ってからの現代文の面白さが、私を現代文好きにさせた。

あの頃は、素材文も本当に読み応えがあった。

西部邁さんのウイットにあふれた大衆批判や村上陽一郎さんの知的好奇心を刺激してやまない科学史・科学哲学など。

(だからこそ私はこのお二方のいらっしゃる東大を受験しようと思ったのだ。)

あの頃の現代文は、本当に面白かった。人生や社会、学問について考えさせられた。読みながら、思わず、う~ん、その通り、などと唸らずにはいられないようなものが多かった。

それに比べて。今の現代文のつまらなさは何だろう。

全然ワクワクしない。扱うテーマも小粒になり、読みながら、そんなん、どうでもええやん、とつぶやいてしまうし、イデオロギー的に偏った人が幅をきかせているようにも思える。次の共通テストでは実学化が進み、文章を掘り下げるものよりも、平面的に、二つを比較するようなものが多く取り上げられるようになるのだろう。ほんとうにつまらん。そうやって、日本人の知が浅くなっていくのだろうか。

今は、現代文よりも古典の方がずっと面白いと思う。

それは、現代文がつまらなくなったということもあるし、私が歳を取って精神的に熟成してきたからということもあるのだろう。

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2019年4月17日 (水)

自分に腹が立つ

特に最近なのだけれども、自分に腹が立つことがとても多い。それは日常の些細なことについてもそうなのだ。

考えて見ると、自分は昔からそうだったのかもしれない。

こんなんじゃだめだ、ちくしょう、と思い、それが向上心につながって、結果的に成功体験というのか、上へ上へと行く原動力になったのだと思う。だから、自分にダメを出す、そういう性質について、「自分に厳しくあるのは良いことだ」と、教師などからは肯定的に捉えられることの方が多かったと思う。

だが、自分に腹が立つ、自分にダメを出す生き方は苦しいだけだ。何もいいことなんかありゃしない。

だから、これまでのことを180度転換しなければならないんだと思う。

自分にダメを出す人は得てして他人に対してもそうだ。

否定よりも、肯定を。

そういう姿勢の方が、絶対にいい。

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2019年4月15日 (月)

真実在との出会い体験をする人の共通点

真実在との出会いのことを初めて聞き知ったのは、大学のとき、井上忠先生が雑誌『理想』に書いていたものを通じてだった。

それから随分月日が経って、心理学者の諸富祥彦さんの著書を読んでいて、諸富氏も同じような体験をされたと知った。

阿部敏彦さんもまた、『さとりの授業』で同じような出会いのことを書かれていた。

共通するのは、出会いが訪れたのは、ものすごい悩み苦しみのあと、エゴ=自我が死んだときだったということだ。

生きながらにして、「自我の死」を体験したその時に、真実在と出会ったということだ。

逆に言えば、自我が強すぎるとそういう体験はまだできないということなんだろう。

私にそういう体験が訪れないのは自我が強すぎるからなのだと思う。

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経験世界と「私」の死

「私」の経験世界において、「私」の死は絶対に経験することができない。

つまり、「私」の経験世界において「私」の死は存在しない。

死ぬのは常に他人である。

この不思議。

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2019年4月14日 (日)

TATS YAMASHITA "Remember Me, baby"

すごく懐かしくなって、山下達郎さんの「Remember Me, Baby」をyoutubeで何度も再生している。

確か、1980年のアルバムだったろうか。思春期真っ盛り(中2)の頃、達郎さんが全編アカペラの多重録音でドゥーワップのカバーアルバムを出すと聞いて、レコード屋に予約しに行ったことを思い出す(限定版だった)。

その「On the Street Corner」の中でひときわ気に入った曲がこれだった。カノン進行ということもあるのだろうか。すごく耳になじんだ。

今も、聴いていると、涙があふれてくる。

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