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2019年11月18日 (月)

英語教育を考える

大学入試の英語を巡って、結局しばらくは従来通りの読む・聞く能力だけを試す形式が維持されるようだ。

私はこれでいいと思う。

確かに、宮家邦彦さんが書かれているように、日本人は国際社会で情報発信が下手すぎて、それが国益を損なう原因となっているということは認める。

しかし、「しゃべること」に重点を置く英語教育は危ういと思う。

私は旧来の英語教育を受けた世代だが、しゃべることに不自由をさほど感じたことはない。

大学時代アメリカに行って、現地の人から「お前、無口だと思ってたけどそんなに英語しゃべれたのかよ」と言われて、こっちがびっくりした。

しゃべることなんて、しゃべる動機があればしゃべれるようになるものだ。逆に、しゃべる必要性を感じなければ、しゃべれるようにならない。ただそれだけのことだと思う。

大学時代の恩師である、故・井上忠氏がおっしゃっていた。英語なんて向こうに行けば子供でもしゃべってる、と。

問題は、上手にしゃべることではなくて、何を話すのか、という内容だと思う。

いくら流暢にしゃべったところで内容のないことをベラベラしゃべれば少しも尊敬されないどころか、かえってばかにされるだろう。

私が危惧するのは、文章問題とて最近のセンター試験は実用主義に傾斜しているのではないかということである。

高校時代、英標に出てくるような、名文を繰り返し音読した。それが、自分の血肉になったと思う。

そういう英文が身に付けば、しゃべれるようにも書けるようにも、自然となってくる。それが、私の実感である。

しょうもない内容しかしゃべれなければ、しょうもない交流しかできないだろう。

しかし、ヘミングウェイやリンド、ハックスリーやニュートンやラッセルなどの名文を繰り返し読んで、その一節が会話の端に現れるようであれば、中味のある相手と中味のある交流ができるのではないだろうか。

また、そういった人たちの文章を原語で読めるようになることが、外国語を学ぶことの喜びではないだろうか。

 

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