2019年8月26日 (月)

アリスを聴いてオフコースのことを思った

たまに、聴きたくなるアリス。

オフコースと出会ったのも、アリスの「ジョニーの子守唄」が入ったオムニバスのカセットを買ったことからだった。

アリスは演歌っぽい、オフコースは垢抜けていて洋楽的。上品で洒落ている。

そんなアリスの歌を聴いていて思った。

オフコースが解散せざるを得なかったのは、やはり、プロモーション戦略が間違っていたからだと。

『Give up』という本にも書かれているが、プロモーションマネージャーが、まずは小田和正という人物を前面に立てる。それから順に、メンバー一人一人にスポットを当てていく、という戦略を立てた。

私は、それは間違いであったし、それが原因でオフコースの不和が生じたと思う。

「さよなら」以前、鈴木康博氏は、バンドの中で小田さんと同じぐらいの存在感があった。アルバムの中においても、小田さんに勝るとも劣らない、佳曲を提供していた。

「ランナウェイ」や「潮の香り」、「恋を抱きしめよう」なんかは、A面にしても十分通用する楽曲であった。

にもかかわらず、プロモーションにおいて、小田さんの曲ばかりをA面にしたのは間違いだったと思う。

ここが、アリスとオフコースの違いなのだ。

アリスは、谷村新司と堀内孝雄の曲をほぼ交互にA面にしてきた。

聴く者にとっても、違ったテイスト、違った個性の歌を、交互に楽しむことができた。

これは売り方としてとても良かったと思う。

確かに小田さんは素晴らしいが、小田和正のソロは、やっぱり単色なのだ。

アリスついでに言うと、『さらば青春のとき』という、アリスの本に、オフコース二人が矢沢透氏との鼎談で登場している。

その中で、オフコースの二人が、矢沢透の引き抜きを本気で考えたということを語っている。

確かに、矢沢透の音楽性は、アリスではなく、オフコースのように洋楽的なのだ。

もしも、この画策が成功して、オフコースが小田、鈴木、矢沢の三人だったら。

矢沢が絶妙なバランサー役を果たして、オフコースは崩壊を免れたのではないか。

そんな風に思えてならないのだった。

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2018年11月16日 (金)

ヤスさんの名曲

オフコースは、やはり小田さんとヤスさんあってのオフコースなんだと思う。

ヤスさんの曲にも名曲は多く、それはオフコースの中で確たる地位を占めていると思う。

で、思いつくままに、ヤスさんの曲の中で名曲と言えるものを列挙していきたい。

「でももう花はいらない」
『僕の贈り物』所収、文句ない名曲だと思う。そして初期のオフコースの代表曲だと言ってもよい。『秋ゆく街で』の中で、小田さんが感極まって歌えなくなるシーンがある。

「のがすなチャンスを」
『この道をゆけば』所収。後に、ハードなロックのアレンジがされていて、それもこの曲にとても合っているなと思った。バンドでのアレンジは、この曲に新しい命を与えたのではないだろうか。

「潮の香り」
『JUNKTION』所収。当ブログ「名曲覚え書き」でも取り上げた。何しろこのコード進行はすごい。よくこんなコード進行を思いついたものだと思う。これも、中期オフコースの代表曲だと思う。

「ロンド」
シングル。ドラマの挿入歌だったらしいが、私はFMラジオでこの曲を知った。ヤスさんの代表曲だと思う。「母」をテーマにした歌詞で、なんかすごくいい。これも中期オフコースの代表曲だと思う。

「恋を抱きしめよう」
『Three and Two』所収。軽快な曲で、ヤスさんの面目躍如だと思う。とても好きな曲です。私はこの曲をFMラジオで知った。「風に吹かれて」のB面だが、小田さんの曲とは好対照で、両A面でもいいと思う。

とりあえず、今日はここまで。

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2018年11月 6日 (火)

「さよなら」と鈴木康博脱退

ネットで、ヤスさんの脱退の経緯をググったりしていると、「さよなら」の叙情派フォークみたいな路線に反発して、というのがその理由らしい。

その気持ちはとてもよくわかる。

「さよなら」でオフコースを知った人も多いのだろうけど、あの曲はやはりそれまでのオフコースとは異質だったと思っている。歌詞もそうで、タモリなんかから「女々しい」と言われるようになった。

だが、売るためには仕方なかったのだろう。

「さよなら」以前のオフコースは、小田さんと鈴木さんのバランスが絶妙で、二人のバランスが保たれているからこそアルバム一枚を通して聴いても飽きが来ないということろがあった。

多少叙情的なところがある小田さんの作品に対して、鈴木さんの作品は垢抜けた洋楽志向で、4ビートとかスイング的な曲をやっても、けっしてイモにならず、ばっちり決まっていた。AOR的であったと言ってもよい。

とりわけ、アルバム「JUNKTION」では、そういうヤスさんの楽曲の良さが遺憾なく発揮されている。

「さよなら」以降、オフコースが小田さんを全面に押し出す路線になってから、ヤスさんのそういう持ち味が発揮しにくくなったのだろう。「さよなら」以前のオフコースファンとしては、とても残念なことだった。

ただ、やはりビジネス的な手腕に関しては小田さんの方が上で、ヤスさんは職人肌の人だったのだろうと思う。

あの頃、ラジオ番組に出演した小田さんが、将来的にはオフコースコンツェルンを築きたいとか発言していて(たしか高橋モコさんの番組だったと思う)、当時小学生か中学生ぐらいだった私は、え?コンツェルン?それ何?と思って調べてみて、なんか音楽に似合わず壮大なことを言うんだなあ、と思ったことを覚えている。

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2018年11月 5日 (月)

山際淳司著『Give up』(飛鳥新社)を読んで

ひょんなことから、山際淳司著『Give up』という本を知ることになり、図書館で借りて読んだ。

オフコースの解散にまつわる話を書いた本だった。

一言で言えば、せつないね。

オフコースをビッグにするために、まずは小田和正を前面に出していこうというプロモーション戦略。それは、必要だったのかな、と。

私は、世間では評価が高かった「We are」「over」「I love you」は、まあ、カスみたいなもんだと思っている。とにかく陰気くさくて、くりかえして聴こうという気にはならない。当時中学生という多感な時期の感性はやはり正直だったと思っている。

むしろそれ以前の、「フェアウェイ」までのアルバムが、私は好きだ。なぜなら、純粋に音楽に対する愛が伝わってくるから。

この本の中では上野博というプロモーション担当マネージャーがクローズアップされているけれども、あの時点で、あんな売り方をすることが本当に必要だったのか。

むしろ、それまでにオフコースを知り、オフコースの音楽を愛していた私は、「心はなれて」行ったのだ。サウンドも硬くなって、女の子にキャーキャー言われるようになり、うんざりだった。

3人が加入することで、人間関係のバランスが崩れていったところは、確かにあると思う。

音楽のファンとしては、こういうことは楽屋裏のことであり、知らない方がいいこともある。しかし、もう「時効」とも言える月日が経ったのだし、知っておいても悪くはない。

ヤスさんには、オフコースにとどまっていてほしかったが、疑心が暗鬼を生じ、どうにもならないところまで行っていたのだろう。

あの時点でヤスさんは運勢的にあまり良くない時期だったのかもしれない。ならば、雌伏して機が熟するのを待つという手もあったのではないだろうか。今言っても詮無いことだが。

ただ、ヤスさんにも至らない点は確かにあったと思う。

例えば、武道館コンサートの後に予定されていた横浜球場でのコンサート。
あれが行われていたら、状況は変わっていたのではないか。
ヤスさんはミーティングで横浜球場コンサートに賛成の挙手をしたが、その数日後、「区切りをつけたい」ということで、行わないように申し入れたという。

武道館コンサートの後で、ヤスさんの乗ったハイヤーがトラックに追突されたことが、本の一番最後に書かれていたけれど、何か暗示的なものだったのではないだろうか。

何にせよ、意固地になって己を主張しすぎるのも良くないなと。

「舞台裏」が書かれた本だった。

そこで、「ゲンダイ」の記事ではあるけれども(笑)、松尾一彦氏のインタビューをもう一度。(笑)

今回登場の松尾一彦さん(59)は、日本のミュージックシーンに名を刻む伝説のグループ「オフコース」のメンバーだった。89年の東京ドームでの解散公演を最後にすっかり姿を見なくなったが、今どうしているのか――。

「解散までの10カ月間で104本のライブをやったんだけど、キツかったわ。その分、最終のライブが終わった瞬間の解放感たるや、スゴかった。ただ、その解放感がツアーが終わったからか、それともオフコースが終わるからなのか、わからないところがあったね」

 表参道駅に近いカフェで会った松尾さん、淡々と昔を振り返った。秋田県出身。もともとは「ザ・ジャネット」なるバンドのメンバー。阿久悠作詞・平尾昌晃作曲の「美しい季節」でデビューするも、パッとしなかった。

「で、東芝のレコード配送センターでバイトをしたりしてね。そんなとき、バンド仲間だった大間(ジロー)が時々ドラムを叩きに行ってたオフコースから、“松尾、ハーモニカ吹けるよな?”と声がかかったのが最初」

76年、大間、清水仁とともに、小田和正と鈴木康博の2人組だったオフコースに加わった。

「ハーモニカで先が広がるとは思ってもいなかった、ハハハ。ハーモニカ以外にもコーラス、ギター、キーボードと要するに“何でも屋”みたいな立ち位置だったね」

■「メンバーも知らない解散の真相が飛び交った」

 オフコースは「愛を止めないで」「さよなら」「YES―YES―YES」などミリオンセラーを連発。しかし、人気絶頂の89年、東京ドーム公演を最後に解散した。

「メンバーもまったく知らない“解散の真相”が世間に飛び交ってた、ハハハ。まあ、一番の理由は鈴木さんが抜けたことだね。小田さんは片腕を失って、オレらではその穴を埋められなかった。解散後、メンバーはそれぞれソロ活動を始めたけど、オレはできなかったな。オフコースではどんなミュージシャンにも負けない自信があったのに、ソロでやってくほどの自信は持てなかったんだよ」

とはいえ、オフコース時代から石川セリ、小泉今日子、岩崎宏美、稲垣潤一、とんねるず、早見優などへ楽曲提供(作曲)を行い、また、吉田拓郎、斉藤和義をはじめとしたアーティストのプロデュース業は順調だった。

「02年ごろからかなあ、ライブを再開したのは。03年にオレが作曲した『悠久の杜“My Home Town”』(歌KOKIA)がNHKの『みんなのうた』で放映されたのがきっかけで、卒業した小学校(秋田県山本郡八森町の八森小学校)の校歌の制作を頼まれたり、背中を押される出来事もあって。ステージに上がって周囲を見渡し、おカネをいただいてもいいかなって思えるようになったのも大きかった」

 東北復興支援のための独立音楽レーベル「Project Next」で小田和正作詞・作曲の「言葉にできない」を自ら歌うなど東北支援にも力を注ぎ、去年、全収録曲の作曲を手がけたアルバム「忘れ得ぬ人」をリリース。そこにはオフコースの元メンバーの鈴木康博、清水仁も参加している。

「ギャラなしで引き受けてくれた。実は4年前に出したミニアルバム『せつなくて』では小田さんにピアノで参加してもらってるんだ。いくつかのパターンの音源を送ってくれて、それでいて、ギャラを受け取ってくれない。オレが活動してなくて、カネはもらえないなんて思ってるんじゃなきゃいいんだけど、ハハハ」

 夫人との間に27歳の娘がいる。

「娘が2歳のときオフコースは解散してるし、何もない日はテレビばかり見てた。教育上、よろしくなかったね、ハハハ」

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/151023

せつないわ。

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