2018年3月 5日 (月)

読書『近衛文麿 野望と挫折』林千勝(WAC)

『近衛文麿 野望と挫折』を読んだ。
正直なところ、近衛文麿が何を目指していたのか、私にはわかりかねた。
が、戦中戦後を通じて、コミンテルンと通じ、日本を破壊しようとした勢力が存在し、それは今もなお、マスメディア(朝日新聞など)や野党の中に入り込み、破壊工作を続けているということがよくわかった。

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2017年12月31日 (日)

木山捷平短編集

今、木山捷平の短編集を読んでいる。
面白い。
プロット自体は特段ものすごくドラマティックな展開があったりするわけではないが、なぜかすごく面白いのである。
この辺は、昭和初期の作家に共通するものであろう。
この時代の作品には、やはり文体があるのである。
作者の息づかいが聞こえるような。

それに比べると、平成の現代作品は何か薄味で、昭和初期の文学を手料理だとするならば、レトルト食品でも食べているような感じである。

やはりパソコンで書くようになったことが影響しているのだろうか。
私もこれを書きながら思うのだが、紙に直に書くのと、パソコンに入力するのとでは、思考が全く違うような気がするのだ。
パソコンではやたら饒舌になってしまうということもある。

豊穣な文学をじっくり味わいたい。

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2017年12月 2日 (土)

読書『晴れたらいいね』藤岡陽子

新聞広告に同じ著者の『満点のゴール』が泣けると出ていて、書店に行ったが、この本が目に付いたので買った。
タイムスリップ&入れ替わりもの&看護婦ものである。以前看護師を扱った小説『ナースコール!』(川上途行作)を読んで感動したので、期待したのだが、微妙。

いちばん違和感があったのが、主人公紗穂の物の言い方であった。あの時代あの空気の中であのような物の言い方は可能なのだろうか。まあ、それがこの小説の眼目ともいえるのだろうが…。それに、平成を生きる現代っ子に、戦地でのあの強行軍を突破することが果たして可能なのだろうかという疑問も持った。

もう一つの違和感は、「平和なヘイセイ」から振り返ってあの時代を裁いているように感じられたからである。これは私の深読み過ぎなのかもしれないが。
「こんな、誰のために始めたのか分からない戦争を心底憎んでいる」と、登場人物に語らせているが、あの戦争は防衛戦争であり、当時の人たちにとってはそれが当たり前の認識であった。「愚かな戦争」というのは、後世の人間の後知恵にすぎない。
なので、あまりリアリティを感じられなかった。

ただ、巻末に参考文献が列挙されているので、それなりに取材・研究をされたのだろうとは思うし、軍医や看護婦の立場からすれば、どんな人間の命も貴重であり、命を救うことが第一だと考えるのは当然のことであり、その点に関しては異議はない。作者としてはそういう側面を訴えたかったのであろう。

私としては、「今」の観点から過去を裁いたり教化したりするのではなく、その時代の人たちがどう考えていたか、ということの方が関心がある。であれば、現代作家によるフィクションではなく、巻末の参考文献などを読むべきなのだろう。

ただ、最後のシーンは感動的であり、落涙不可避であった。この作家の他の作品も読んでみたいとは思う。

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2017年11月 9日 (木)

ゼニ・カネにこだわらないこと

『悪魔とのおしゃべり』を読んでなるほどと思ったのは、金持ちになりたいと思えば、金持ちになりたいと思わない方がいいという内容だ。筆者によれば、金持ちになりたいと願うということは、今金持ちではないという現実がすでにかなっているからだということなのだが、渇望すればするほど逃げていくというのは確かにあると思う。

私は、金持ちになりたいと思ったことはない。
要するに、金に対する執着がない。金をそれほどの価値と思っていない。
僭越ながら故池田晶子氏の言葉を借りれば、「精神性以外のものを価値と思ったことがない」からである。
なるほどだから、今まで大して金に困らずにやってこれたのか。
いやそれは、そもそもそういう運のもとに生まれているからなのか。
とにかく、金に執着し、二言目にはすぐに金の話をする人を卑しいと思うのである。

だが、私はいい女性に出会いたいとは希った。
しかし、渇望すればするほど、そういう出会いはなかったという思いがある。
これは、がっついているのが表面に現れてしまったからという物理的な理由もあるのだろうが、やはり渇望するのは良くないんだろうと。

閑話休題。
だから、私のことをハングリー精神がないと罵倒した手相見がいたが、簡単な話、そんなものはない方がいいのだ。
そんなものはない方が、人間としての品格も保っていられるのだ。
そんなものがなくても、安心して暮らしていられる運命を、神が与えてくださったのである。
そんなこともわからぬ、なんという即物的で哀れな手相見であろうか。

だが、その手相見でさえ、私の中にある幻想である、とみつろう氏なら言うだろう。
そして、その通りなのかもしれない。
あるいは、自分というものが二つに分離し、手相を見てもらう私と、手相を見る私とに分かれた。
そう考えれば、もともとはその手相見でさえ自分であると言えるかもしれない。
だから、怒る必要はないのだ。
彼女は、何らかの必要があって、あの時、私の前に現れたのであろう。
だから、そのことに感謝するほかはないのだ。

と、みつろう氏の本を読んで思った。

いずれにせよ、現世的な成功に、私は何の興味もない。
またまた僭越にも故池田晶子氏の言葉を借りれば、それが私の魂、魂の私であるとしか、言いようがないのである。

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読書『悪魔とのおしゃべり』

さとうみつろう『悪魔とのおしゃべり』を買って読んだ。
「正しさなんてただの多数決」という触れ込みや、タイトルがあまりに衝撃的過ぎて、買うことをためらったが、読んでみて本当によかったと思う。
あまりにくだけすぎた会話体は自分にとって決して読みやすいとは言えなかったが、摩訶不思議な宇宙の構造、この存在の構造というものを、筆者なりのやり方で語っているのではないだろうか。
存在論、認識論、最新の理論物理学、悪人正機説、浄土論、絶対他力思想、唯識思想、キリスト教、等々、さまざまな知見がちりばめられていて、ああ、なるほど、それはそういうことだったのか!と、目からうろこが落ちるような気持を味わった。筆者はよく勉強してよく考えた人なのだろうと感じた。
必ずしもすべてが理解できるというわけではないが、なぜか勇気づけられ、力づけられる本だった。
私は「スピリチュアル」と言いながら現世利益を説く本が大嫌いなのだが、この本はその手の本ではなかったように思う。
『神様とのおしゃべり』よりもわかりやすく、共感できた。
意外や意外、もしかすると、私の座右の書となるかもしれない。
ありがとう!

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2016年10月22日 (土)

読書記 火野葦平「花扇」

火野葦平の「花扇」を読んだ。
なんだか昼ドラのような小説だった。
高利貸しの男性と花の師匠の奔放な女性との恋、そして三角関係。
それにしても、救われない話だった。
今、昼ドラはやってないんだろうか。
この小説を昼ドラにしたら面白いだろうなと思うのだが。

この小説を読んだのは、たまたま『麦と兵隊』を目当てに図書館で借りた本に入っていたから。
やはり小説は昔のに限る。


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2016年10月13日 (木)

『渡邊二郎著作集』

偶々、図書館で『渡邊二郎著作集』を見かけ、手にとって借りてみた。
乾いた地面に雨水がしみこんでいくように、著者の言葉の一つ一つが心にしみこんでいくのを感じた。

渡邊先生は私の大学時代の指導教官であられた。
だが不肖私は不真面目な大学生で、先生の講座の末席を汚すだけに過ぎないような存在であった。
先生の哲学概論を履修したが、構造主義や現象学の話で、若くて生意気な私は、「これが生きることとどんなかかわりがあるのか」とシニカルな気持ちで受講していた。
「若気の至り」という言葉があるが、まさにそんな気持ちが若気の至りであったと、『渡邊二郎著作集』を読んでみてようやくわかった。

私の精神年齢がようやく、先生のお話を聴けるぐらいに成熟してきたということだろうか。

ならば、あの本郷での3年間、何というもったいないことをしたのだろう!

この本を読むと、先生の研究が「人間として生きること」「どう生きるべきなのか」という根本的なテーマから発しそこに帰着するものであるということがわかる。

そう思えなかったのは、当時の私の若さ故の短絡であったのだろうか。

また、いつも地味なダーク系のスーツを着て来られ、講義も堅苦しく、何という四角四面の堅苦しいお方なんだろうと思っていたが、さにあらず、この本を読めば、意外にお茶目でロマンティストなところもある(ご自身によれば多重人格ではないが二重人格)お方だとわかる。

なぜもっと、先生の懐に飛び込んで行かなかったのか、と、実に悔やまれるのである。

渡邊先生は本当の愛智者であり、人間としても立派な方だったのだなあと、この本を読んで、今更ながら知らされたのである。(本を贈呈した人にいつも丁寧に感想のお手紙を書いていらしたというエピソードからもわかる。)

巷には、読むに値しない文章も多い。悲しいかなそういうのがベストセラーになったりもする。
しかし、渡邊先生の文章は、読むべき文章である。

若き日に渡邊先生と出会えたのは幸せなことだったのだ。
当時の自分にそれがわからなかったのが、実に悔しく悲しいことである。
それに気づくのに30年もかかってしまうとは…。
この『渡邊二郎著作集』を読むことで、渡邊先生を偲びたいと思う。

30年近く遅れた挨拶になってしまううえ、すでに渡邊先生はこの世にはいらっしゃらないが、渡邊先生、本当にありがとうございました。そうお伝えしたいのである。

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2015年9月11日 (金)

村上陽一郎著『私のお気に入り』

村上先生がご自身の生い立ちをはじめ、お気に入りのものを語っていらっしゃるご著書。
私が学生時代にはあまり意識していなかったが、村上先生は戦前生まれなんだなあ。
この本を読むと、村上先生が、能、音楽、映画、落語等々、さまざまな文化に通暁していらっしゃる教養人なんだなあと実感する。

私が東大に行ってよかったと唯一(?)思えるのは、村上先生の講義を毎週生で拝聴できたことだ。これは何物にも代えがたい貴重な経験だった。京大に行っていれば今頃自分の人生は変わっていたかも、と妄想することが多いが、東大で村上先生の授業を聴けたことは、やっぱりあれでよかったんだと思える理由になる。

この本を読んで初めて知ったのだが、村上先生は一浪して文二に入学されたということ。
そして、私信では旧かな旧漢字を守っていらっしゃる!ということ。
後者は大変意外でありまた私にとって大変心強い味方を得た気持ちになった。

それと、某新聞に関して、皇室関係の記事で「天皇陛下は……した」という、敬語を使わない表現が日本語を破壊している、とずばり書いていらっしゃって、私も溜飲を下げた。まあ、どの新聞かは言わずともわかるのだが。

村上先生はローマカトリックのクリスチャンだそうだが、由緒正しき日本人のお一人であるなあ、と思った。

あの頃は若手のお一人だった村上先生もお年を召されたのだなあと、この本を読んでいて思ったが、どうか、これからもいつまでもお元気でお過ごしになってほしいと、そう願わずにはいられない。

とても貴重で、面白い本でした。

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2013年1月15日 (火)

『虹とノストラダムス』読後感

昨年の暮れに、産経新聞の書評欄で紹介されていた『虹とノストラダムス』(太田忠司、PHP)を読んだ。
読みやすい文体で、つるつると読み進めることができた。
なぜ読もうと思ったかというと、書評で「読後感が爽やか」と書かれていたし、自分自身「ノストラダムスの予言」に戦慄した世代だからである。

とても面白い本だった。
主に四人の人物が出てくるが、それぞれがそれぞれの人生を歩む様子が面白い。

しかし、次はどうなるかどうなるかと思いつつ、ストーリーそのものは意外な方向に展開せず、なんとなく先が読めてしまう展開だった。(例えば主人公が同僚のOLと結婚するとか。)

とは言え、最後の最後になって、大きなどんでん返しというかなんというか、思わず「えっ?」と声を上げてしまう結末が待っているのはどういうことだろう。

この作品を通して作者が何を伝えたいのか、いまいちよく分からなかった。
それと、物語の中で提示された謎が解決しないままだったのは、ちょっと不全感があった。

それは、主人公の臨死体験で出てきた、白い服を着た子どもと、その子が「だって僕は君の○○だから」と言っていたことだ。その「○○」は何なのか。守護霊なのか、と考えるが、その謎は最後になってもわからない。

それともう一つ。「恵津子」が占いをするようになったことの理由で、手首を切って臨死体験したときに、宇宙の構造がはっきりわかったの、そちら側からみればこっちのことがよくわかる、というようなことを言っていたのだが、それが結局「ハッタリ」だったのか、それとも本当にそうだったのか、わからないままなのである。

恵津子は結局占い師をやめることになるのだが、彼女が語っていたことは本当だったのか、それとも、それもまた嘘だったのか。

読者としては、作者がどう考えているのか、気になる。

それからもう一つ。
神戸の大震災の日付が「三月十七日」と記されているのは単純な誤植なのだろうか。
それともフィクション性を高めるために、あえてそう記したのか。
他の史実がそのまま記されているので、単なる誤植だと思うのだが。

その時その時の時代背景も織り込まれていて、同じ時代を過ごした者としては何となく胸がきゅんとなるような物語でもあった。

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2009年11月26日 (木)

『金正日は日本人だった』読書記

『金正日は日本人だった』という衝撃的なタイトルに引かれて、
思わず衝動買いしてしまった。
もしかして「トンデモ本」か?と思ったが、読んでみて
タイトルほど衝撃的な内容ではないと思った。

この本の眼目は、金正日は実は金日成の実子ではなく、
金正日の実父は「金策」という日本軍の残置諜者である、
という仮説に基づけば、不可解な北朝鮮の動き方も
ある程度わかりやすくなる、というもの。

筆者によれば、金正日の実父とされる「金策」は、
畑中理という日本人で、日本の敗戦を受けてもなお
半島に残り続け、日本の国体を実現することを決意したという。

著者の佐藤守氏は長年航空自衛隊の最前線で仕事をしてこられた方なので、
記事の大半はそれなりの説得力のある内容である。

本書の9割は真実で、残り1割は眉につばを付けて読んだ方がよい、
というのが私の感想。著者自身も、「金正日=日本人」説を特段声高に
主張しているわけではなく、もしそうであったら色々と不可解なことも
説明がつく、と控えめに述べているに過ぎない。

とりわけ、第10章の「北のディープスロート」だが、この人物が誰なのか、
著者もたった一度会っただけであり、その素姓も明らかになっていないので、
単純に信じるわけにはいかない。

ただ、もし万一、北朝鮮が反日国家でなかったら、今日アメリカに対して
行っているタフ・ネゴシエーションは本来なら日本がそうすべきであった
ものであるし、核武装にしても、唯一の被爆国である日本こそが主張する
権利のあるものである。

とすれば、ある種のメタファーとしては、北朝鮮が日本の残置国家であるという
こともうなずけないこともない。

面白いと思ったのは、金正日が親日家であるという説だ。
アメリカをののしっていたフセイン宅から多くのアメリカ製のDVDやら何やらが
見つかって、実はフセインはアメリカの文物を愛好していたということが後で
わかったわけだが、それと同じようなものだろうか。

北朝鮮という不可解な国家を考える上では、多角的な見方が必要で、
こんがらがった糸を丁寧に解きほぐしてゆくような分析と慎重さが
必要なのだと考えさせられる本だった。

『金正日は日本人だった』佐藤守著、講談社刊

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