2016年10月22日 (土)

読書記 火野葦平「花扇」

火野葦平の「花扇」を読んだ。
なんだか昼ドラのような小説だった。
高利貸しの男性と花の師匠の奔放な女性との恋、そして三角関係。
それにしても、救われない話だった。
今、昼ドラはやってないんだろうか。
この小説を昼ドラにしたら面白いだろうなと思うのだが。

この小説を読んだのは、たまたま『麦と兵隊』を目当てに図書館で借りた本に入っていたから。
やはり小説は昔のに限る。


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2016年10月13日 (木)

『渡邊二郎著作集』

偶々、図書館で『渡邊二郎著作集』を見かけ、手にとって借りてみた。
乾いた地面に雨水がしみこんでいくように、著者の言葉の一つ一つが心にしみこんでいくのを感じた。

渡邊先生は私の大学時代の指導教官であられた。
だが不肖私は不真面目な大学生で、先生の講座の末席を汚すだけに過ぎないような存在であった。
先生の哲学概論を履修したが、構造主義や現象学の話で、若くて生意気な私は、「これが生きることとどんなかかわりがあるのか」とシニカルな気持ちで受講していた。
「若気の至り」という言葉があるが、まさにそんな気持ちが若気の至りであったと、『渡邊二郎著作集』を読んでみてようやくわかった。

私の精神年齢がようやく、先生のお話を聴けるぐらいに成熟してきたということだろうか。

ならば、あの本郷での3年間、何というもったいないことをしたのだろう!

この本を読むと、先生の研究が「人間として生きること」「どう生きるべきなのか」という根本的なテーマから発しそこに帰着するものであるということがわかる。

そう思えなかったのは、当時の私の若さ故の短絡であったのだろうか。

また、いつも地味なダーク系のスーツを着て来られ、講義も堅苦しく、何という四角四面の堅苦しいお方なんだろうと思っていたが、さにあらず、この本を読めば、意外にお茶目でロマンティストなところもある(ご自身によれば多重人格ではないが二重人格)お方だとわかる。

なぜもっと、先生の懐に飛び込んで行かなかったのか、と、実に悔やまれるのである。

渡邊先生は本当の愛智者であり、人間としても立派な方だったのだなあと、この本を読んで、今更ながら知らされたのである。(本を贈呈した人にいつも丁寧に感想のお手紙を書いていらしたというエピソードからもわかる。)

巷には、読むに値しない文章も多い。悲しいかなそういうのがベストセラーになったりもする。
しかし、渡邊先生の文章は、読むべき文章である。

若き日に渡邊先生と出会えたのは幸せなことだったのだ。
当時の自分にそれがわからなかったのが、実に悔しく悲しいことである。
それに気づくのに30年もかかってしまうとは…。
この『渡邊二郎著作集』を読むことで、渡邊先生を偲びたいと思う。

30年近く遅れた挨拶になってしまううえ、すでに渡邊先生はこの世にはいらっしゃらないが、渡邊先生、本当にありがとうございました。そうお伝えしたいのである。

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2015年9月11日 (金)

村上陽一郎著『私のお気に入り』

村上先生がご自身の生い立ちをはじめ、お気に入りのものを語っていらっしゃるご著書。
私が学生時代にはあまり意識していなかったが、村上先生は戦前生まれなんだなあ。
この本を読むと、村上先生が、能、音楽、映画、落語等々、さまざまな文化に通暁していらっしゃる教養人なんだなあと実感する。

私が東大に行ってよかったと唯一(?)思えるのは、村上先生の講義を毎週生で拝聴できたことだ。これは何物にも代えがたい貴重な経験だった。京大に行っていれば今頃自分の人生は変わっていたかも、と妄想することが多いが、東大で村上先生の授業を聴けたことは、やっぱりあれでよかったんだと思える理由になる。

この本を読んで初めて知ったのだが、村上先生は一浪して文二に入学されたということ。
そして、私信では旧かな旧漢字を守っていらっしゃる!ということ。
後者は大変意外でありまた私にとって大変心強い味方を得た気持ちになった。

それと、某新聞に関して、皇室関係の記事で「天皇陛下は……した」という、敬語を使わない表現が日本語を破壊している、とずばり書いていらっしゃって、私も溜飲を下げた。まあ、どの新聞かは言わずともわかるのだが。

村上先生はローマカトリックのクリスチャンだそうだが、由緒正しき日本人のお一人であるなあ、と思った。

あの頃は若手のお一人だった村上先生もお年を召されたのだなあと、この本を読んでいて思ったが、どうか、これからもいつまでもお元気でお過ごしになってほしいと、そう願わずにはいられない。

とても貴重で、面白い本でした。

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2013年1月15日 (火)

『虹とノストラダムス』読後感

昨年の暮れに、産経新聞の書評欄で紹介されていた『虹とノストラダムス』(太田忠司、PHP)を読んだ。
読みやすい文体で、つるつると読み進めることができた。
なぜ読もうと思ったかというと、書評で「読後感が爽やか」と書かれていたし、自分自身「ノストラダムスの予言」に戦慄した世代だからである。

とても面白い本だった。
主に四人の人物が出てくるが、それぞれがそれぞれの人生を歩む様子が面白い。

しかし、次はどうなるかどうなるかと思いつつ、ストーリーそのものは意外な方向に展開せず、なんとなく先が読めてしまう展開だった。(例えば主人公が同僚のOLと結婚するとか。)

とは言え、最後の最後になって、大きなどんでん返しというかなんというか、思わず「えっ?」と声を上げてしまう結末が待っているのはどういうことだろう。

この作品を通して作者が何を伝えたいのか、いまいちよく分からなかった。
それと、物語の中で提示された謎が解決しないままだったのは、ちょっと不全感があった。

それは、主人公の臨死体験で出てきた、白い服を着た子どもと、その子が「だって僕は君の○○だから」と言っていたことだ。その「○○」は何なのか。守護霊なのか、と考えるが、その謎は最後になってもわからない。

それともう一つ。「恵津子」が占いをするようになったことの理由で、手首を切って臨死体験したときに、宇宙の構造がはっきりわかったの、そちら側からみればこっちのことがよくわかる、というようなことを言っていたのだが、それが結局「ハッタリ」だったのか、それとも本当にそうだったのか、わからないままなのである。

恵津子は結局占い師をやめることになるのだが、彼女が語っていたことは本当だったのか、それとも、それもまた嘘だったのか。

読者としては、作者がどう考えているのか、気になる。

それからもう一つ。
神戸の大震災の日付が「三月十七日」と記されているのは単純な誤植なのだろうか。
それともフィクション性を高めるために、あえてそう記したのか。
他の史実がそのまま記されているので、単なる誤植だと思うのだが。

その時その時の時代背景も織り込まれていて、同じ時代を過ごした者としては何となく胸がきゅんとなるような物語でもあった。

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2009年11月26日 (木)

『金正日は日本人だった』読書記

『金正日は日本人だった』という衝撃的なタイトルに引かれて、
思わず衝動買いしてしまった。
もしかして「トンデモ本」か?と思ったが、読んでみて
タイトルほど衝撃的な内容ではないと思った。

この本の眼目は、金正日は実は金日成の実子ではなく、
金正日の実父は「金策」という日本軍の残置諜者である、
という仮説に基づけば、不可解な北朝鮮の動き方も
ある程度わかりやすくなる、というもの。

筆者によれば、金正日の実父とされる「金策」は、
畑中理という日本人で、日本の敗戦を受けてもなお
半島に残り続け、日本の国体を実現することを決意したという。

著者の佐藤守氏は長年航空自衛隊の最前線で仕事をしてこられた方なので、
記事の大半はそれなりの説得力のある内容である。

本書の9割は真実で、残り1割は眉につばを付けて読んだ方がよい、
というのが私の感想。著者自身も、「金正日=日本人」説を特段声高に
主張しているわけではなく、もしそうであったら色々と不可解なことも
説明がつく、と控えめに述べているに過ぎない。

とりわけ、第10章の「北のディープスロート」だが、この人物が誰なのか、
著者もたった一度会っただけであり、その素姓も明らかになっていないので、
単純に信じるわけにはいかない。

ただ、もし万一、北朝鮮が反日国家でなかったら、今日アメリカに対して
行っているタフ・ネゴシエーションは本来なら日本がそうすべきであった
ものであるし、核武装にしても、唯一の被爆国である日本こそが主張する
権利のあるものである。

とすれば、ある種のメタファーとしては、北朝鮮が日本の残置国家であるという
こともうなずけないこともない。

面白いと思ったのは、金正日が親日家であるという説だ。
アメリカをののしっていたフセイン宅から多くのアメリカ製のDVDやら何やらが
見つかって、実はフセインはアメリカの文物を愛好していたということが後で
わかったわけだが、それと同じようなものだろうか。

北朝鮮という不可解な国家を考える上では、多角的な見方が必要で、
こんがらがった糸を丁寧に解きほぐしてゆくような分析と慎重さが
必要なのだと考えさせられる本だった。

『金正日は日本人だった』佐藤守著、講談社刊

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2009年11月10日 (火)

『未来のための江戸学』 田中優子著

『未来のための江戸学』(田中優子、小学館101新書)を読了。
そもそものきっかけは、産経新聞のコラムの中で田中氏自身が紹介していた
ことだった。田中優子氏についてはよく知らないが、以前NHKでやっていた
「江戸の色恋ものがたり」というのが面白くて、氏の他の著作を探したことがあったので、
ちょうどよい機会だと思って氏の著書を読むことにした。

氏の考えには、うなずけるとこともあれば、そうではないところもある。

私は筆者の意見にはおおむね賛成である。
江戸時代を循環の時代として肯定的にとらえているところは
大いにうなずける。また、明治維新についても、「暗黒から夜明けへ」という
ものではなくて、外圧によるやむにやまれぬものであり、それ以降の近代化によって
江戸時代の価値観が失われたことの損失は大きいという意見にも賛同できる。

ものが豊かなことだけが幸福なことではない、という意見や、
住宅の西欧風化によって、日本人の人間関係がいびつになったというのもうなずける。

しかしながら、江戸時代の平和は、筆者が冒頭で掲げているさまざまな矛盾と
1セットであり、江戸時代の「いいとこどり」だけをすることは不可能なのではないだろうか。

平和な世が260年も続いたということは、強固な身分制度や徳川による強力な統治なくしては
ありえなかっただろうし、見せしめのための残忍な刑罰なくしても治安を維持することは
不可能だったろう。

筆者は死刑制度に反対だし、核による抑止にも反対、憲法9条を守る立場だが、
これは大いなる矛盾というか、ああ、やっぱりお花畑だなあ、と思わざるをえない。

筆者はアメリカによる覇権主義には言及しているが、日本のすぐ隣にいる
中国による人道問題や軍事大国化には知らぬ存ぜぬを決め込むのだろうか。
だとしたらよっぽどおめでたい。

筆者が言うように、これからの日本が拡大主義をやめて循環型の社会をめざすなら、
少なくとも核武装ぐらいはして、他国の干渉から身を守るぐらいのことはしなければ
不可能だろう。

それぐらいのことが、黒船の砲艦外交で脅された江戸を研究する筆者にはわからないのだろうか。

筆者が言うように、未来のために本当に江戸時代的な循環社会を目指すなら、
もっとリアルにものごとを考える必要があるだろう。

一例をあげれば、排泄物の再利用にしても、さまざまな薬品を摂取している
現代人の排泄物をそのまま肥料として再利用することは不可能であろう。
そのくらいのことは素人にもわかる。

江戸時代はよかったよ、というぐらいなら、素人にもできる。
本当に「未来のための」と銘打つのならば、もっとリアルな分析・提言をしてほしいものだ。

でなければ、小谷野敦氏に「お江戸左翼」と呼ばれても仕方ないだろう。

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2008年7月10日 (木)

『偽善エコロジー』武田邦彦(幻冬舎新書)

最近テレビを見ていると、「エコ替え」と言って、エコな新製品に買い換えよう
という宣伝をやっている。まだ使える物を捨てて新しい商品を買うという行為の
どこがエコなのだろう? 自分の頭でものを考える人なら、そう思うはずだ。
そして、最近にわかに喧伝されるようになった「エコ」運動の胡散臭さに
気付くことだろう。

武田邦彦氏の著した『偽善エコロジー』は、環境問題のずぶの素人にも
わかるように書かれている。もはや新興宗教と化した「エコ教」からの
洗脳を解くためには良い本だと思う。

例えば、
■レジ袋は原油のうち昔は捨てていた成分を利用できるようにしたものなので、
レジ袋廃止運動は意味がない。
■間伐材を使って日本の森林を守るために、国産の割り箸を使うべきだ。
■紙のリサイクルは意味がない。
■ごみは、可燃物と金属の二種類の分別でよい。
■ペットボトルのリサイクルは意味がない。
等々。

レジ袋の廃止に私は胡散臭いものを感じていたが、著者がその根拠を証明してくれた。
最近の「エコ運動」は科学的な根拠がなかったり、それをすることで誰かが得をする
ということを、素人にも分かりやすいデータで紹介してくれている。

もっとも、この本の内容の全部が全部、納得できるというようなものでもない。
もう少しくわしく聞いてみたいと思うものもある。

しかし、このような本が広く読まれることで、自分の頭で何も考えずに「エコ」という流行に
乗る人が減り、何が本当に環境によいことなのかを考え、自然の恵みに感謝しながら
生きるという人が増えてくれればよいと思う。

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2007年4月 3日 (火)

『人生のほんとう』池田晶子著(トランスビュー)

もうすぐココログが24時間メンテナンスに入るというので、今のうちに
感想を書いておこう。

とても共感するところもあれば、よくわからないところもあった。
池田氏の講演集であるが、ソクラテスがそうしたように、聴衆との
対話であればもっとよかったのだが。
読みながら「それはどういうことなの?」と質問してみたいとも思った。

哲学は存在とか真理にあくまで理性を使って肉薄していく営みであるが、
そういう知力を持たない人もいる。「頭一つでできること」と池田氏は言う
けれども、例えば数学的思考がとても得意な人は少ないように、
哲学的思考について行ける人というのも、多数派ではないように思う。

私もそうであるけれども、凡人はどうしても情緒や感傷が介入してしまうのだ。

ずっとロゴスで語りながらも、Ⅵ章の冒頭でいきなりカタストロフに話が
飛躍しているのはどうしてなのだろう?

哲学は「死の学び」であると言われるように、この私、生きていることすら
相対化する行為である。『14歳からの哲学』が売れて以来、「わかった」と
思う人が増えているのだろうが、「わかった」と思ってしまったり、池田氏に
心酔して「池田教」のようになってしまったとするならば、それこそ哲学という
営みからはかけ離れた者になってしまうだろう。そのことを、よく肝に銘じて
おくべきだろう。

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2007年3月10日 (土)

『君自身に還れ』池田晶子・大峯顕(本願寺出版社)

池田晶子さんの2冊の本を読了。

うち1冊は、『14歳の君へ』(毎日新聞社)。
毎日中学生新聞に連載されていたコラムと書き下ろしをまとめたもの。
話題になった『14歳からの哲学』よりもわかりやすいように感じた。
中学生が関心を持ったり悩んだりしがちな身近な問題から説き起こし、
それ自体が哲学=考えることの入門書となっている。
専門用語を全く使っていないけれども、歴史上の哲学者が
考えてきた哲学史を語ることにもなっている。

読み終わって思うのは、私が14歳の時にこんな本と出会えていたら、
ということである。なぜ14歳なのか?
それは14歳というのが一番悩みやすい年頃だからだと思う。
実際私もそうだった。生きるということについて。人との関係について。
自分自身について。

すべての物思う年頃の人たちが、読んでおくべき現代の古典となるに
違いない。


もう1冊は、『君自身に還れ』(本願寺出版社)。
池田さん急逝のニュースの中で、この本が出版されるということを知った。
哲学の碩学にして浄土真宗僧侶の大峯顕氏と、哲学、宗教、科学などに
ついて対話がなされている。

池田さんの理性の突出した食いつきに対し、それを大きく包むような
大峯氏の受け答えに、学者としてまた人間としてのスケールの大きさを
感じた。

思考というのも年齢とともに成熟していくものだということを池田さん自身も
感じておられたようだが、これから池田さんの思考がどう成熟していくのかを
読めなくなってしまったということが残念で仕方がない。
本書を読むとそれを強く感じる。
しかし彼女は言うだろう。「あとは自分で考えよ」と。

「あとがき」の日付が、「2007年3月」となっているのが、とてもせつなかった。

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2006年11月18日 (土)

『低度情報化社会』コモエスタ坂本著(光文社)

インターネットをやっている人なら一度は読んでおくべき本。
著者はインターネットの黎明期からシステム開発などに携わってきた人。
過激な表現もあるが、筆者の主張にはおおむね納得できる。

私が初めてパソコンを買ってから早9年足らず。
今や毎日パソコンを開き、インターネットをするのが普通になってしまった。
当初はネットに1時間も2時間も費やすと、時間を無駄遣いしたなあ、という
「もったいなさ」で一杯だったのだが、そういう感覚も年月と共に薄れていく。
気づいたら、mixiやyoutubeにハマっている自分がいる。

本書は、ネット情報化社会に潜む病理を克明に描き出している。
ここに書かれていることは、至極正論なのだが、改めてこうやって1冊の本が
書けてしまうということ自体、低度情報化社会が進行しているという証左なので
あろう。

筆者は、「低度化くん」にならないために、「まずはネットを捨てよ。そして、街へ
出よ。現場に行け。古典を読んで、違う世界の人間と会って、あなたの頭に
さまざまなバーチャル・モデルを構築していく」ことを勧める。

この本を読んだ後でも相変わらずmixiをやり、ブログを書く私がいるのだが(笑)、
情報は所詮情報であるし、人間の生きる基本はリアル世界にある。
そこのところをきちんとわきまえておくことはとても大切だと思う。

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