2017年6月 9日 (金)

祖母の遺品

今日、祖母の遺品の整理をした。
今日整理したものは、着物と、書棚・書見台を兼ねた小さなタンス。
いつか処分しなければと思っていても、いざそれがなくなってしまうとなると、寂しいものだ。
着物は、近くの着物屋さんで委託販売してもらうことになった。
置いておいても誰も着る人がいないだろうから。
使ってもらえる人に喜んで着てもらえたら、それが着物にとっても一番いいことだから。
祖母が他界して去年十七回忌だった。
もう、そんなに経つのに、遺品整理するのでさえ心の痛みを少し感じる。
何ということだろう。
だが、逝ってしまった人よりも、今ここにいる人の未来が大切だから。
祖母だって、それを望んでいるはずだ。
生前の祖母が私にかけてくれた愛情のことを思えば、確かにそうであるはずだと思う。

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2017年5月29日 (月)

「苦」の原因は小我である

で、直前に書いた日記と矛盾するようであるが、今、そういう苦しみを感じている私の、その苦しみの原因は何だろうかと考える。

そうすると、それは、自分が無視されたように感じるとか、大切に扱ってもらえないとか、いたわってもらえないとか、そういう「否定感」に帰着するのである。それは、一種のプライド感であり、つまるところ、小我というものなのである。

小我に執着する気持ち、わかりやすく言えば自己愛なのだが、それが、苦しみの原因となっている。

だから、自己すなわち小我なんてなんぼのもんじゃい、と思えれば、つまり、己に執着する自分を笑い飛ばすことができるなら、その苦しみをなくすことができるのかもしれない。それは宗教的な道であろう。

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男はプライドの生き物である

男と女、夫婦の問題について考える。
男はつまるところ、プライドの生き物なのだ。
そのプライド感を大切にしてあげる女性は良妻になれるし、
その逆もしかり。

昔の日本女性はこの真実をわかっていた。
石堂淑郎氏の書いた「日本人の敵は日本人」にも、江戸時代の「おかみさん」は、
亭主の操縦術をうまく心得ていた、というようなことを書いていたと思う。
(もう散逸してしまったので確認できないが。)

女性が必要以上にその権利を声高に主張し、必要以上に強くなると
それは男性にとってのみならず、女性自身にとっても不幸である。
これは私が思っているだけではなく、同い年の女性がそう語っていた。

女性はそもそも生物学的に強い生き物なのである。
対して、男は弱い。
女性の方が精神的にも図太いのである。
だから人間(日本人)は、あらかじめ男に下駄を履かせる文化を築いてきたのだ。
それによって、世の中がうまく回ってきた。
敗戦後、そういう文化が破壊された。

男を立てる、というのは、形式的にそうすればよいというのではない。
男としてのプライド感を大事にしてやる、という、内面的なことなのである。
そういう配慮ができる女性はもはや稀少になってしまったのだろうか。

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2017年2月 6日 (月)

保守とは何か、サヨクとは何か。その思考の方向性

私は、保守とサヨクとは、その思考の方向性にあると思っている。

すなわち、
起こってくるすべての出来事を己の責任ととらえ、背負っていこうとする姿勢が「保守」の姿勢である。

これに対して、
自分のことを棚に上げて、ありとあらゆることをすべて他者のせい、社会のせいにするのが「サヨク」の姿勢である。

これは単に、政治的な態度だけではない。

日々の、われわれ一人一人の生きる姿勢でもある。

何か問題があったとして、その原因を他者に求めたり、犯人捜しをするような態度は、美しくない。

自分のことを棚に上げ、他者に責任を負わせるようなことは、生き方の姿勢として、美しくないのである。
それにだいいち、それでは自分自身が少しも成長・向上していかないではないか。

私は美しく生きたいし、日常の生活においても、ほんとうの保守でありたい。

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悪妻を得れば哲学者になれる

ソクラテスが言ったという言葉に、
「とにかく結婚したまえ。良妻を得れば幸福になれるし、悪妻を得れば哲学者になれる。」
というのがある。
名言だと思う。
そして私はこの言葉を励みにして日々生きている。

細君のおかげで、私は随分いろいろな本を読み、随分と思索した。
元々私は哲学志向なのだが、細君のおかげで私はますます哲学的になってきたように思う。
本を読み、思索し、実践する。
日々、その積み重ねである。

そして、悪妻は人を哲学者にするだけではない。
人をアガペーの人、愛の人にもするのである。

もし細君が私の理想とするような「良妻」であったなら、こんなに思索をすることもなかったかもしれない。
私は以前の自分のレベルにとどまっていただろう。自分の愛の容量だとか人格を大きくするために努力をしなかったかもしれない。

曾野綾子さんがよくおっしゃっていることなのだが、神はどこにいるか、と。神はあなたの目の前のその人のなかにいるのだと。

悪妻は、神が私に対して、人間的な成長を促すために遣わした、磨き石のようなものなのかもしれない。

そして、ソクラテスの言ったことは本当なのだと実感している。


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節分と恵方巻き

2月3日は節分だった。
我が家では恵方巻きの丸かじりと豆まきをやった。

私は、関西に出るまでは恵方巻きなるものの存在を知らなかった。
私の家では、節分の行事といえば、豆まきだけだった。
恵方巻きはもともとは花街のお遊びから始まったという説もある。
その起源もせいぜい江戸時代末期ぐらいからという説があり、けっして歴史の古いものではないだろう。
また、そういうお遊びに海苔業界が乗っかったものなのだろうから、日本の古い伝統というわけでもあるまい。
平安時代の文学には、節分の豆まきの起源ともいわれる追儺の鬼やらいというのが出てくるが、恵方巻きなんてのは(私の知る限りではあるが)けっして出て来ない。

だから、恵方に向かって、黙って丸かぶりしなければならない、なんてのは、所詮迷信に過ぎないと思っている。
黙って食おうがそうしまいが、幸福とは全く関係ない。
むしろ和気藹々と歓談しながら食事した方が、幸福感が増すのである。

それに、私が恵方に向かって黙って丸かぶりした年、私は自転車で転んで膝を骨折し、ひどい目に遭った。
だから、あんなものは迷信だと自信を持って言い切れる。

けれども大阪人の細君は、この迷信を信じ切っていて、先日の節分の折にも、子供らに「黙って食べないと幸せが逃げていく」などとのたもうていた。

そうして、豆まきの準備が遅いと言って子供らを怒鳴っていた。

いや、その怒気そのものが、「鬼」なんでしょうが。
その、人の心に巣くう「鬼」を追い払うための、豆まきなんでしょうが、と。
まったく、本末転倒だと思う。

ただ、私はそのことを表立って言わなかった。
言っても、相手が聞く耳を持たなければ意味が無いからだ。
こういうのは、本人がみずから気づくしかないのである。

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2017年1月31日 (火)

昨日見た夢

他人の夢の話ほど退屈なものはないという。
しかし、このブログはほとんど誰も見ていないと思うので、個人の記録として書こう。

英語の授業だった。
高校時代、怖い先生として知られたN先生。
ただし、私は教わったことはない。
私が宿題を忘れたのが二度目ということで、N先生に拳で顔面を正面から殴られた。
が、寸止め?にしてくれたらしく、痛みは全くなかった。
が、なぜか私の歯ぐきのあたりから流血……。
この辺が、いかにも夢、らしい。
その時、私は夢の中でこう考えていた。
「おやじにも殴られたことないのに~!」という、あの有名な台詞を言ってたら、ウケただろうになあ……と。
夢の中でも、そんな思考をするというのがとても面白いと思った。

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2014年3月 4日 (火)

春。

今年もまた、春がやって来た。
私にとって、時間の循環と、時間なき永遠への接続を、最も感ずる季節である。

昔のことをふと思い出したりするのもこの季節である。

BGM:ひと恋めぐり(柴咲コウ)、桜色舞うころ(中島美嘉)

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2013年9月18日 (水)

ミュージシャンとお花畑~その3

書き残したことをもう少し。

要するに、私が言いたいのは、こういうことだ。
どうして素直に、ぼくらの生活や音楽を支えてくれている電力、ありがとう、と素直に言えないのだろう。
そうして、すこしでも電力消費を減らせるよう、節約しよう、と言えないのだろう。
そういうことだ。

また、放射能放射能と騒いでる人間に限って、飛行機使って海外飛び回ってたりする。
機内の線量は、「フクシマ」の何十倍も高いということを知らないのだろうか。
無知すぎるにもほどがある。
そういう人間に限って、福島のものを買わないようにしよう、なんて言って、風評加害の片棒を担いでいたりするわけだ。

原発反対、放射能反対言ってればそれで正義の立場だとでも思っているのだろうか。
人間社会、国際社会は思っている以上に複雑なのだ。

自分だけは善人でいたい、というような独りよがりの思考が、すごく気持ち悪いんだよね。

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ミュージシャンとお花畑~その2

ミュージシャンとお花畑について、また書きます。

FBを見てると、ミュージシャンって反原発の人がほんとに多いんだなあ、と思います。
すぐに原発やめろ!ってスタンスです。
山本太郎のリンクを貼ってる人もいます。
みのもんたはフクシマのことを心配して素晴らしいのに、なぜ消されるんだ、みたいな人も。

我が国は隣国と違って、言論の自由が保証されていますから、だれが何を言おうと自由だと思います。
しかし、上記のようなカキコを見ると、ほんとにイタイなあ、と思わざるを得ません。

どうしてか。
それは、己のことを棚上げして他の瑕疵をひたすら非難する思考だからです。

人は皆、誰かに迷惑をかけつつ生きている。
誰にも迷惑をかけずに生きることなんて不可能だ。
だから、人は自ずと謙虚にならざるを得ない。

これが私の人生における構えです。

何を言いたいのか。
誰しも、電力の恩恵にあずかっていると思うんです。
ミュージシャンならなおさらのこと。
エレキギターや電子キーボード、ライブを行うときに使うPA。
もちろん、完全に生で行うライブもあるでしょうが、野外でなければ照明も要ります。
レコーディングをするひとなら、必ず電力のお世話になります。

そういうことを一切省みることもなく、「原発ハンターイ」って叫んでる人には、ほんとにおぞましさを感じるんですよね。なぜなら自省する力がないからです。

日本が、この腹黒い国際社会のなかで生き残っていくためには、日本の先端技術が必要であり、そのためにはどうしても質の良い電力が必要なのです。

テメエが鳴らしてるそのギターは何だ?
そのキーボードは?
アンプだけじゃない、日本製のキーボードなら、良質な電力を使って作られた工業製品なんです。

原発ハンターイなんて叫んでるミュージシャンには、じゃあギターアンプなんか使うな、完全にアンプラグドでやれ、と言いたいです。もし電力が必要なら、自分でエアロバイク漕げ、電気を作るのがどれだけ大変か思い知れ、と言ってやりたいです。

本当は、冷蔵庫も使うな、ましてやパソコンなんか使うな、と言いたいのですが。

要するに、オマエがのうのうと暮らしていられるのは一体誰のお陰だ、そのことも考えずに、何が原発反対だ、ってことですよ。

たとえて言うと、一家において、父が一生懸命汗水流して働いて、お金を稼いでくる。そのお陰で子供は生活できている。父がそのためにどれだけ苦労しているか、想像すらしないで、親に向かって「お前くさいんだよ、早く失せろ」と言ってるどら息子と一緒なんですよ。

そういう醜さ、気持ち悪さが、私は大嫌いなんです。

ちなみに、「韓流研究室」に面白いエントリがあったので、貼っておきます。

(以下、引用)

★ヨーロッパ産はヨシ、日本産はダメ。
 2013-09-03
 http://ameblo.jp/sincerelee/entry-11605434315.html
さてさて、韓国中のマスコミとネチズンが
「放射能ネタで行こう 」
と日本への攻撃を続けている今日今頃ですが、

ちょっと面白いことが分かったので、
簡単に紹介します。

韓国で「日本産を輸入禁止しろ!」と
騒いでいる根拠となる「放射能騒動」関連物質
(セシウムなど)は、どれも基準値未満です。

市民団体やマスコミなどは
「極めて微量でも、食べ続けると危険だ」
という論調でした。

・・・・ですが、
ヨーロッパ産の粉ミルクとチーズで、
それと同じ位のセシウムが検出された
ことが分かりました。


個人的には
「よかったね。ヨーロッパ産も
 輸入禁止しろと騒げよ(笑」と見ていたのですが・・・

何と、同じ量のセシウム(もちろん、
基準値未満です)が検出されたのに、
日本産は返送、ヨーロッパ産はそのまま通して
いるとのことです。
(引用ここまで、続きはリンク先で)

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