2012年5月11日 (金)

旧仮名・旧漢字を取り戻さう!

戦後日本人の精神が堕落したのは、旧仮名遣ひの廃止と漢字制限がその原因の一つである、といふのが私の持論である。

旧仮名遣ひの復活と漢字制限の撤廃(つまることろ常用漢字の廃止)はある意味、憲法改正よりも難しいであらう。

最近産経新聞に載った記事がきっかけで、尋常小学国語読本を図書館で借りてみた。

これがとてもよい。本来の美しい日本語とは、かういふものであったかと思った。

たとへば、「良い」の丁寧形は「良いです」ではなく、「良うございます」なのである。

それから、旧仮名遣ひは萩野貞樹氏が言はれるやうに、たいへん合理的にできてゐるのである。もちろん旧漢字もさうだ。

戦後政策による旧仮名遣ひの廃止と漢字制限は、戦前の伝統的な日本の知的遺産へのアクセスを困難にしただけではない。日本人の立ち居振る舞ひにまで影響を与へてゐたのである。

旧仮名遣ひで書かれたものを読むと、何かしら心が清らかになるやうな気がする。

IT化が過剰に進んでしまった現在、旧仮名旧漢字でものを書くのはかなりの困難を伴ふ。しかし、IT企業も旧仮名旧漢字完全対応のIMEを開発するなどの努力をしてほしいものだ。

尋常小学国語読本には美しい日本語が詰まってゐる。大人も子どもも、この本で美しい日本語を学びたいものだ。

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2008年10月 2日 (木)

やまとことば

二日程前だったか、産経新聞の地方面に、「やまとことば」の
話が載っていた。それによると、やまとことばは濁点を嫌うのだ
そうだ。だから、「神社」も「じんじゃ」ではなく、できれば
「かみやしろ」と読んでほしい、と、宮司さんが語っていた。

美しい心は美しい言葉から。
やまとことばについて、もっと知りたくなった。

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2008年2月16日 (土)

藝事の真髄

NHK朝ドラ「ちりとてちん」がまさに佳境だ。
今日の放送なんて、涙なくしては見られなかった。
笑いをとる脱力系かと思いきや、しっかり泣かせる。
なかなかすばらしい脚本である。

そして、この脚本家は藝事の真髄にも通じているように
思われる。
今日の放送で、小草若に対して草若が、「自分のないものを
高座で出そう思うても出えへん。お前はお前の落語をやったら
ええのや」というアドバイスをするシーンがあった。
ジャズのインプロビゼーションにしてもそうで、自分にないものを
やろうとしても出ない。また、人の真似をして自分らしくない
アドリブをしようとしても、聴いている方もわかってしまう。
だから、自分の歌を歌えばよい。

それから、草若師匠が言っていた台詞で、
「不器用なもんほどぎょうさん稽古する。
ぎょうさん稽古したもんは、誰よりもうまくなる」というのがあった。
これなどは、私がサックスの師匠に言われた言葉そのまんまである。

落語であろうと、音楽であろうと、その本質は同じということなのだろう。

ちりとてちん、おそるべし。
この脚本作家は藝事の真髄に通じているに違いない。

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2007年3月 5日 (月)

池田晶子さんの逝去に際し

池田晶子さんの訃報に接して、驚いたことがある。
それは、彼女が結婚していて、「本名・伊藤晶子」と新聞記事に
記されていたことだった。

生前の池田さんの文章を読むにつけ、彼女は愛犬と一緒にマンションに暮らす
独身の女性だと思っていた。だからこそあれほど人に厳しく犬に優しい(?)
文章になってしまうのだろうと、勝手に思い込んでしまっていた。

『14歳からの哲学』に、ひとが恋愛に興味を示すのは、その先にある性の快楽を
予見するからだ、というくだりがあり、もしかしてこの人は男女の愛を知らないから
そんなことを書くのではないか、と勝手に思っていた。まったく、「誤読」というのは
恐ろしい。

池田さんの文章ほど誤読されやすく、好き嫌いの分かれる文章もないのではない
だろうか。けれどもきちんと読んでみるとそこに書かれていることが、論理的思考に
よって紡ぎ出された事実であるとわかるのだ。

ファンレターとともに、いろいろな誹謗中傷も受けたであろう。まさに
「わかろうとする人にはわかる、わかろうとしない人にはわからない」ということを
身をもって感じていたのではないだろうか。


もう一つ、驚いたのは、彼女が15年前に『朝まで生テレビ』にパネリストとして
出演していたということだった。内容は、「オウム真理教vs幸福の科学」で、
麻原教祖や大川代表をはじめ、両教団の幹部が出席するものだったらしい。
パネリストとして西部邁氏や宗教学者の島田裕巳氏、栗本慎一郎氏なども
同席していた。この番組で池田さんが何を語ったのか、とても興味がある。
番組のオープニング映像だけyou tubeで見ることができたが、
とても知的な美人という感じだった(私の好みのタイプではないが。)

『14歳からの哲学』が売れた時に、『ニュースステーション』に出演しているのを
見たが、久米宏や森永卓郎という、およそ形而上的なことを考えたことのない人
との会話は、あまりかみ合っているとも思えなかった。

最近の週刊新潮のコラムで、学者や文化人などがテレビに出るととたんに堕落
した顔つきになる、と批判していたけれども、それはテレビという現場の雰囲気を
肌で知っていたからなのだろう。

島田裕巳氏のブログによれば、池田さんは過去の記憶が映像としてではなく、
文字として頭に残るような、特殊な能力を持つ人だったという。

とにかく、一度お会いしてみたい人だった。
もうそれがかなわないのが残念である。

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2007年3月 3日 (土)

哲学者・池田晶子さんが死去

今朝の新聞で、哲学者で文筆家の池田晶子さんが亡くなられたことを
知り、とても驚いた。

あまりに早すぎる。

最近お父様を癌で亡くされたということを、連載コラムで知っていたが、
それからほどなく、なんだか後を追うような、腎臓癌での他界だった。

連載中の週刊新潮の「人間自身」とサンデー毎日の「暮らしの哲学」は
ほぼ毎週立ち読みしていたが、ここ最近、かつてのようなキレがないなと
感じることも多く、それも体調から来るものだったのだろうか。

調子の良い時の池田さんの文章は、彼女が語っているというよりも、
真理自身が彼女の口を通して語っている、と思えるようなものだった。
それぐらい、エゴのない、透明なことばの数々であった。
「哲学の巫女」と呼ばれたゆえんである。

たえず生と死と宇宙のなぞについて考えていた方なので、
ご自分が亡くなるということについてはまったく驚いていないだろう。
むしろ、生前に語っておられたように、その一回切りのプロセスを
神秘として味わっていたかもしれない。

だが。

残された我々はとても寂しく思う。
いかなるイデオロギーや思想や宗教の立場に偏することなく、
常識の嘘を暴き続け、本当に何が大切なのか、自分自身の頭で考えたことを、
誰にでも分かることばで語り続けたあの文章が、もう読めなくなるなんて。

だからこそ思うのだ。
人が亡くなるというのは、文字通り、「あっ」という間なのだと。
だから、一期一会なのだと。

世間に哲学学者や思想家やイデオローグの類は数多いるが、自分の頭で
考え続け、自分のことばで語り続ける真正の哲学者は少ない。

だからこそ、もっと生きて、書き続けて欲しかった。

「心より、お悔やみ申し上げ、哀悼の意を捧げたいと思います」としか、
今は言いようがないのである。

合掌。

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2007年2月25日 (日)

国語教育の改革を

大東亜戦争敗戦の後、古くから日本にあったいろいろなものが
失われたと言われているが、「国語」もそのうちにはいるだろう。


たとえば、文部省の「当用漢字」(「常用漢字」)制定によって、
使える漢字が限られるようになってしまった。
「誰」「謎」「頃」などは、多くの人が目にする漢字であろうが、
驚くべきことに、これらは常用漢字ではない。


「常用漢字」を制定することが、いかに「表現の自由」を侵害しているか。
難しい漢字にはルビを振ればいいのであって、漢字の使用制限を
なくすべきである。


また、われわれ戦後世代は「新しい仮名遣い」に慣れてしまっているが、
旧仮名遣いの方が、語源や語と語の関連がわかりやすいらしい。
明治・大正・昭和初期の書物も旧仮名遣いで書かれている。
旧仮名遣いが読めないということは、これらの文化的遺産にアクセス
できないということを意味する。大きな損失である。


さらに言えば、漢字の簡略化である。
漢字本来のなりたちを最もよく表すのが旧字体である。
漢字を簡略化することは、意味のない「記号」にすることに等しく、
簡略化することによってかえって漢字を面白みがなく覚えにくいものに
しているのではないだろうか。


「写真」の「写」の旧字体は「寫」である。このつくりは「シャ」という
音を表し、「ものをこちらからあちらへうつす」ことであるという。
また、うかんむりは屋根を表す。それで、「寫」は「屋内へうつす」ことを
意味するという。これが、偏(へん)も旁(つくり)も変わってしまっては
まったく意味が分からなくなってしまう。
こんな例は枚挙にいとまがない。


ことばは、人間精神の支柱である。
戦後日本人の精神が合理性や効率性ばかりになってしまったのも、
ことばの問題と無関係ではないだろう。
小手先のことではなく、教育改革はまず国語改革から、と思う。

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2006年9月 2日 (土)

冥王星の格下げで…

占星術家のマドモアゼル・愛氏が、面白いブログを書いている。
 
 http://mademoiselleai.nifty.com/madeailog/

冥王星の格下げで、アメリカの存在感の低下が起こるだろうこと、
核の最終兵器としての意味がなくなるだろうこと、等々を予測している。

なぜなら、冥王星は唯一アメリカ人によって発見された惑星だからだ。
それに加えて、冥王星の英語名はPlutoであり、これは元素名のプルトニウム
(plutonium)と通底するからだ。

確かに、冥王星が発見された1930年から、アメリカは世界の覇権国として
君臨してきた。また、その頃以来、現在まで核の時代であったと言ってよい。

伝統宗教では、こういう占術の類を迷信として退けるようだ。
以前、カトリックの曾野綾子さんが、そういうことを新聞のコラムに書いていたし、
仏教(浄土真宗)の本にも、占いごとに頼るべからずと書かれていた。

ただ、占星学というものを、おすがりするものとしてではなく、知的な遊戯として、
また世界を解釈する象徴としてとらえるのは面白いと思う。

「あなたの将来の運勢はこうなる」みたいなのは私もあまり信じないけれども、
自分のホロスコープを出してもらうと、驚くほど的確に性格を言い当てられるのだ。

そんなわけで、この冥王星騒動を象徴的に解釈すると、マドモアゼル・愛さんが
書いているようなことになるらしい。それにしても、「核が最終兵器ではなくなる」
というのが気になるところである。

それは、核が散発的に使われても、人類の滅亡にはつながらないということなのか、
核の保有国が増えるということなのか。イラン、北朝鮮も不穏な動きをしているし……。
くわばら、くわばら。

ところで、今日のニュースで、アメリカの宇宙科学者300名がこの決定に反対する署名
をしたと言っていたけれども、今後この動きがどうなるのだろうか。気になるところです。

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2005年11月24日 (木)

京都 菊地成孔メロドロジー論

夕方から京都に行った。
河原町の駅を出ると、とにかくものすごい人の波。
やっぱり京都は都会だ。私の中のイメージでは東京に近い。
長い間都があった場所だから当然か。
京都にも一度は住んでみたいという憧れがずっとあったけれども、
やっぱりこれだけ人の多い所には住めないなあ、と今日思った。
もっとも、中心を離れればのどかなのだが、
私には、町の規模、人の気風など、神戸あたりがちょうどいいような
気がしている。


さて、今をときめく菊地成孔さんのメロドロジー論第2回。
大半がHIP-HOP論とその音源で、HIP-HOPに無関心な私には
ちょっと退屈だった。まあ、メロドロジー論の行き着く先が、この種の音楽
というわけだから仕方ないか。私としては、バークリーメソッドからリディアン・
クロマティック・コンセプトそしてラングメソッドへ、という音楽理論史的なことを
もっと語って頂きたかったが、講義の終わりに急ぎ触れただけだった。


それにしてもこの方は実に該博。
いつどこで勉強されたのか、実にいろんな知識が頭の中に整理されていると
お見受けした。横道にそれ出すととどまるところを知らず、次から次へと
いろんなネタが飛び出してくる。


また、ご自身も不安神経症を患っておられる(おられた?)だけあって、
フロイトが、ユングがとか、ラカンが、などと精神分析にも詳しい。
また、マルクスがどうの、資本主義がどうのとか、その辺の西洋思想史にも
精通しておられる模様。音楽を語りながら、これだけ知的好奇心を満たしてくれる
人はそうざらにはいないだろうなあ。さすが、東京から来た人は一枚も二枚も上手を行く。
来年には5世紀~20世紀の音楽理論史を某・音大でレクチャーされるらしい。
ああ、行きたいなあ。せめて関西でも集中講義みたいなのをやってほしい。

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