2006年8月 9日 (水)

「禅」を知る~TV Bros.

TVブロスというマニアックなTV雑誌があるのだが、禅に関する特集記事が
少しだけ載っていた。

私はもう今ではものすごい生臭おやじになってしまったが、
小学生ぐらいの時から禅寺に憧れていて、こういう記事を見ると即座に反応する。
きっと前世では修行僧か何かだったんだろうと勝手に思っている。

さて、その記事の中から抜粋。

私たちは「きれい・汚い」、「縁起がいい・悪い」などと、すぐに線を引きたがる。
でも、その線は私たち一人一人の心の働きで勝手に引いているもの。
でも、私たちは線を引かずには生きていけなくなっている。その線が
知らず知らずのうちに増え、やがて真っ黒に塗りつぶされた面になり、何も
見えなくなってしまう。でもその線を一本ずつ取り払っていけば、「人間の損得
勘定の一切通用しない大自然の大きな生命の営みの中で生かされている」
という真実が見えるようになる。それが見えず、自分のちっぽけな世界を
損得勘定だけで生きているから、幼稚で主体性のない大人が増えるんです。

(TV Bros.8/5~8/18号 p11より)

まさに至言。いのちの言葉とは、こういう言葉を言うのだろう。
インチキ宗教は「ご利益」を言うけれども、このことを知っていれば引っかかることもない。
さらに言えば、本当の宗教とは道徳(善/悪)をすら超越した地平にあるということだ。

が、その線をすべて取り払ったときに見えてくる世界はどういうものなのだろう?
そして、それができた人は、どういう生き方をするようになるのだろう?
凡夫である私はそれを知りたいと思うのだった。

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2005年12月29日 (木)

光に照らされることによって心の闇の深さを知る

近くの商店街に買い物に行ったら、そこにある浄土真宗のお寺の掲示板に

「光に照らされることによって 心の闇の深さを知る」

というような言葉が書かれていた。
なるほど。そう、人はたやすく他人を批判する。そこにあるのは、自分だけは正しい
という、何の根拠もない思い込みである。このような精神こそ、浄土真宗では戒められる。
悪事をはたらいた人は、そういう機縁があって悪人になった。我々もそういう「縁」さえあれば
悪事をはたらいてしまう可能性のある存在である、というわけである。
己だけは正しい、真っ白だと思っていた自分が実は罪悪の身であったということは、
「本当に真っ白な存在」に照らされることによって初めて気づく、ということであろう。

いやな事件や事故が後を絶たず、マスコミはそういう話題で持ちきりである。
人が人をあげつらい、批判し、訴え、けなすことに
何のためらいも恥じらいも感じない社会になっているとすれば、
モノは豊かになったが、何という貧弱な精神の社会であろうか。

今の子ども達がマスメディアを通じて、このような、人を批判する姿勢ばかりを
覚えていくとすれば、未来にはおそろしくすさんだ社会が実現するだろう。
本当に必要なのは、一人一人が「光に照らされる」ことによって、
おのが身の罪業を知るということであろう。
そこからしか、ほんとうの謙虚さは生まれてこないように思う。

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2005年11月12日 (土)

追悼 本田美奈子さん

本田美奈子さんの訃報を聞いて、「えーっ」と驚いた。
38歳。ほぼ私と同時代を生きてきた人だ。


デビュー当時のちょっとワルな感じの歌は、正直好きではなかった。
しかし、最近クラシックの歌唱法を身につけて、高らかに朗々と歌うのを
テレビで聴いて、ほんとうに歌が上手になったなと思った。
そして、デビュー当時のあの姿は売り出しのために「作られた」姿であって、
ほんとうはこんな清らかな歌を歌う人だったんだ、と知ったのだった。
私は、その歌声に、まるで天使のような、この世ならぬ清々しさを感じたのであった。


法名は「釋優聲」だそうだ。ということは、浄土真宗門徒であったのか。
真宗では、「戒名」ではなく、「法名」という。これは、生きているうちから
いただくこともできる。平等を旨とする真宗なので、位も何もない。
みんな、「釋○○」という。
真宗では、死を「穢れ」ととらえることもしないし、死者のための追善供養もしない。
「冥福」を「祈る」ということもしない。
なぜなら、なくなった人は浄土に還ったのであり、迷っているのは死者の方ではなくて、
生きている我々の方であるからだ。


本田美奈子さんの訃報に接し、人間はいつか必ず死ぬ存在なのだということを
また改めて確認させられた。だからこそ、一日一日を大切に、また、出会う人との
出会いを大切にしなければならないということを教えられた。人は日々の忙しさの中で、
そういうことをつい忘れがちになるが、こうやってことあるごとに、「呼びかけられている」
のだろう。


「天使のような歌声」を残して彼女は浄土に還った。
南無阿弥陀仏。合掌。

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2005年9月 2日 (金)

お寺の法話

学校に行く途中に、浄土真宗のお寺がある。
そのお寺の壁に「今月の法話」というのが掲示されていて、
その内容を読むのを毎月楽しみにしている。

何ヶ月か前、こんな内容が掲載されていた。
私たちはずっと「人に迷惑をかけない人間になりなさい」と
小さいときから教育される。しかし、人に迷惑をかけずに生きられる
人間なんていない。人間は生きているだけでだれかの世話になり、
だれかに迷惑をかけざるをえない存在なんだ、という自覚が必要なの
ではないか。
というような内容だった。

「人に迷惑をかけない人間になりなさい」と言われて、それを実践しようと試みる。
これは、道徳のレベルでは大切なことである。
だが、実はそこから人間の傲慢というのが生まれる。
自分が道徳的優等生と思い込んで他人を裁いたりしてしまう。
これはかえって人間を真実から遠ざけてしまう。

人は生きていれば何らかの形で人に迷惑をかけざるを得ないものなんだ、
と自覚することからほんとうの謙虚さが生まれる。いかなる他人に対しても
「自分も同じ凡夫なんだ」と思える。

「人に迷惑をかけてはいけない」というのは、道徳のレベルの言葉である。
だが、「人は生きているだけで周りに迷惑をかけざるを得ない存在なんだ」というのは
道徳を超えた、真実の認識である。

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